芸術論講義室
2026-09-01 10:23:00
感情は、どこから立ち現れるのか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第19回 感情は、どこから立ち現れるのか
前回、私たちは過去・現在・未来について考えました。
過去は、記憶をもとに現在に立ち現れる。
現在は、外界からの膨大な情報の中から選別され、現在の現実として立ち現れる。
未来は、まだ起きていないにもかかわらず、予測や想像によって現在に立ち現れる。
それぞれに使われる情報は異なります。
しかし、人間がそれらを「現実」として経験するというところから考えると、一つの共通点がありました。
過去も、現在も、未来も、現在の内部表現を通して、現在に立ち現れている。
そして、その考察の最後に、一つの新しい問題が残りました。
内部表現が、その人にとって何が重要なのかを評価する構造でもあるのなら、
その「重要性」は、何を基準として決まっているのでしょう。
そこで私たちは、
人間にとっての重要性は、感情的価値をベースとしているのではないか。
という可能性にたどり着きました。
今回は、ここから考えてみたいと思います。
「許す」とは、どういうことなのだろう
誰かに、ひどく傷つけられたとします。
長い間、その人を許すことができない。
しかし、あるとき考えます。
「いつまでも怒っていても仕方がない。」
「相手にも事情があったのだろう。」
「これ以上争っても何の得にもならない。」
「もう過ぎたことなのだから、許そう。」
これは、十分に論理的な判断です。
そして実際に、その相手と普通に話すこともできるかもしれません。
表面的には、以前と変わらない関係に戻ることさえあります。
では、その人は本当に相手を許したのでしょうか。
相手の顔を見た瞬間、嫌な気持ちになる。
名前を聞いただけで腹が立つ。
昔の出来事を思い出すと、今でも怒りが込み上げてくる。
相手の言葉を、どこか信用することができない。
もしそうであるなら、
顕在意識では、
「許す」
という判断をしていても、
その人の内部表現における相手の感情的価値は、ほとんど変わっていないのかもしれません。
つまり、
「許すと判断した」ことと、「許した」ことは同じではない。
ここには大きな違いがあります。
論理的納得と、内部表現の変化は同じではない
人間は、内部表現を変えなくても行動を変えることができます。
嫌いだけれど、仕事だから付き合う。
許せないけれど、争っても仕方がないから和解する。
怖いけれど、必要だから行う。
納得できないけれど、規則だから従う。
これらは、決して不合理な行動ではありません。
むしろ社会生活を送るうえでは、必要なことも多いでしょう。
しかし、
行動が変わったことと、内部表現が変わったことは別です。
相手を許したように振る舞っていても、
内部表現の中では、
「信用できない人」
「自分を傷つけた人」
「警戒しなければならない人」
として存在し続けているかもしれません。
論理によって、
「許したほうがよい」
という結論を出すことはできる。
しかし、その論理的結論によって、
相手を見たときに立ち上がる感情まで必ず変わるとは限らない。
だとすれば、
論理的納得と、内部表現の変更もまた、同じではない
と考える必要があります。
感情が一瞬で変わることもある
ところが、その反対のことも起こります。
これまで何度か考えてきた、
「嫌な奴だと思っていた人が、身を挺して自分を守った」
という極端な例を考えてみます。
自分を守れば、その人自身が大きな危険にさらされる。
それでも、その人は自分を守った。
その瞬間、
「これまでの自分の評価は正しかったのだろうか。」
「本当はいい人なのではないだろうか。」
「過去の出来事をもう一度検討してみよう。」
と、順番に論理的な検証を始めるでしょうか。
そうではないかもしれません。
嫌悪が、一瞬にして感謝へ変わる。
そこには、論理的な検討の過程さえ存在しない可能性があります。
感情的価値そのものが、強烈な経験によって一瞬で塗り替えられる。
すると、
それまで疑いようのなかった、
「あの人は嫌な奴だ」
という現実が維持できなくなります。
嫌な奴であるはずの人が、
自分を守るために自分自身を危険にさらした。
それまでの内部表現によって成立していた現実と、
今、目の前で起きた経験が両立しない。
ここで、現実に破綻が生じます。
そして、そのあとから、
「自分は相手を誤解していたのではないか。」
「あのときの出来事も、別の意味だったのではないか。」
という論理的な検証が始まる。
つまり、この場合には、
論理によって感情が変わったのではありません。
むしろ、
感情的価値が先に変化し、それによって、それまでの現実が維持できなくなり、論理が後からその破綻を説明しようとする。
この順序で起きている可能性があります。
では、感情はどのように変わるのだろう
もちろん、すべての感情が、このような強烈な経験によって一瞬で変わるわけではありません。
論理的に考え続けることで、少しずつ変わることもあるでしょう。
諦めることによって、執着が弱くなることもあるでしょう。
新しい経験によって、以前とは違う見方ができるようになることもあるでしょう。
しかし、それでも変わらない感情があります。
怒り。
悲しみ。
恨み。
恐怖。
後悔。
頭では、
「もう終わったことだ。」
と分かっている。
それでも、感情は終わらない。
ところが何年、何十年と時間が経ったあと、
かつてあれほど腹が立っていた出来事を思い出して、
「そんなこともあったな。」
と笑えることがあります。
一方では、
何十年も前の出来事をふと思い出しただけで、
突然、当時と同じような怒りが込み上げてくることもあります。
普段は、その出来事のことなどほとんど考えていない。
それなのに、一度思い出すと、
まるで今起きている出来事のように腹が立つ。
この違いは、どこから生まれるのでしょう。
時間が感情を消しているのだろうか
もし単純に、
「時間が経てば感情は薄れる」
のであれば、
同じように何十年も経った出来事に対して、
一方では笑うことができ、
もう一方では今でも怒りが込み上げてくることを説明しにくくなります。
そこで、もう一度、
前回考えたことに戻ってみます。
過去も、現在も、未来も、現在の内部表現によって現在に立ち現れている。
この考え方を感情にも当てはめると、違った見方ができます。
昔の出来事を思い出して怒っているとき、
私たちは本当に、
過去に感じた怒りそのものを再生しているのでしょうか。
そうではない可能性があります。
過去の出来事が現在に思い出され、
現在の内部表現によって評価され、
その結果として、
現在の感情が立ち上がっている
のかもしれません。
昔の怒りではなく、今、もう一度怒っている
例えば、30年前に誰かからひどく馬鹿にされたとします。
出来事の細部は、すでにかなり曖昧になっている。
どこで言われたのか。
正確に何と言われたのか。
周囲に誰がいたのか。
そうした情報の一部は、思い出せなくなっているかもしれません。
ところが、その出来事をふと思い出した瞬間、
猛烈な怒りが込み上げてくる。
これは、
30年前の怒りが、そのまま現在に戻ってきた
と考えることもできます。
しかし、別の考え方もできます。
現在の内部表現にも、
「人から軽く扱われることは許せない。」
「自分を馬鹿にする人間は信用できない。」
という重要性の評価が残っている。
そこへ、30年前の出来事が現在に立ち現れる。
現在の内部表現は、その出来事を、
「今の自分にとっても重要な問題である」
と評価する。
その結果、
現在の怒りが立ち上がる。
だとすれば、
私たちは昔の怒りを再生しているというより、
過去の出来事を材料として、今、もう一度怒っている
と考えることができます。
なぜ、同じ過去を笑えるようになるのか
反対の場合も考えてみます。
若いころ、人前で大失敗をした。
そのときは、
恥ずかしくて仕方がなかった。
何度思い出しても、
「なぜあんなことをしてしまったのだろう。」
と苦しくなった。
しかし何十年か経った現在、
同じ出来事を思い出して、
「あのころは若かったな。」
と笑える。
過去の出来事そのものが変わったわけではありません。
失敗したという事実も変わっていません。
変わったのは、
現在の内部表現です。
現在の自分にとって、
その失敗は、もはやそれほど重要ではない。
「失敗することもある。」
「そんなことで人生が決まるわけではない。」
「今となっては面白い思い出だ。」
現在の内部表現における重要性の評価が変わっている。
だから同じ過去が立ち現れても、
そこから立ち上がる感情が違う。
つまり、
過去の出来事が現在の感情を決めているのではない。
現在の内部表現が、その過去にどのような重要性を与えるのか。
そこから、
現在の感情が立ち上がっているのではないでしょうか。
「忘れる」とは何なのだろう
ここで、「忘れる」ということについても考え直す必要があります。
時間が経つと、昔の出来事を思い出すことは少なくなります。
だから私たちは、
「もう忘れた。」
と言います。
しかし、本当にその出来事が完全に消えてしまったのでしょうか。
何十年も思い出していなかった出来事が、
ある匂い。
ある音楽。
ある場所。
ある言葉。
ある人との会話。
そうしたものをきっかけに、突然思い出されることがあります。
だとすれば、
少なくとも一部の場合、
「忘れる」とは、過去が完全に消えることではなく、その過去が現在の意識に立ち現れにくくなること
と考えることもできます。
もちろん、人間の経験がすべて完全な形でどこかに永久保存されている、と考える必要はありません。
失われる情報もあるでしょう。
記憶そのものが変化することもあるでしょう。
しかし、
思い出さなくなったことと、その出来事に関係する内部表現が変わったことは同じではありません。
ここは重要です。
思い出さなくても、内部表現は変わっていないことがある
何十年間、その出来事をほとんど思い出さなかった。
その間、怒ることもなかった。
だから、
「もう忘れた。」
と思っていた。
ところが、ある日突然思い出す。
すると、
当時と同じような怒りが込み上げてくる。
もしそうなら、
出来事が意識に立ち現れなくなっていただけで、
その出来事を「許せない」と評価する現在の内部表現は、変わっていなかった
のかもしれません。
つまり、
思い出さないことは、必ずしも感情から解放されたことを意味しない。
過去が現在の意識から退場していただけで、
現在の内部表現が同じであれば、
再び立ち現れた瞬間、
同じような感情が現在に生じることがある。
ここから考えると、
単純に、
忘れること=救済
とは言えなくなります。
重要なのは、現在の内部表現なのではないか
過去の出来事を消すことはできません。
起きたことを、起きなかったことにはできません。
そして、無理に忘れようとしても、
完全に消えるとは限りません。
しかし、
現在の内部表現は変わることができます。
現在の内部表現が変われば、
同じ過去を思い出しても、
そこに与えられる重要性が変わる。
重要性が変われば、
そこから立ち上がる感情も変わる。
かつて怒りをもって立ち現れた過去が、
懐かしさをもって立ち現れることもある。
あるいは、
ただ、
「そんなこともあった。」
という出来事になることもある。
出来事を消したわけではありません。
記憶を失ったわけでもありません。
現在の自分が変わったのです。
感情は、過去に保存されているだけなのだろうか
ここまで考えると、
感情についての見方も少し変わってきます。
過去の怒り。
現在の怒り。
未来への不安。
私たちは、それらを別々の感情として考えがちです。
しかし、前回の議論と今回の考察をつなげると、
別の可能性が見えてきます。
過去を思い出したとき、
現在の内部表現がその過去を評価し、
現在の感情が立ち上がる。
現在の出来事に出会ったとき、
現在の内部表現がその出来事を評価し、
現在の感情が立ち上がる。
未来を想像したとき、
現在の内部表現がその未来を評価し、
現在の感情が立ち上がる。
だとすれば、
過去・現在・未来にそれぞれ独立した感情が存在しているというより、
現在の内部表現による重要性の評価を通して、その都度、現在の感情が立ち上がっている
と考えることができます。
ここでも、
過去・現在・未来は、現在において一つにつながっています。
感情は、現実に後から付け加えられるものではない
ここで、今回の最初の問いへ戻ってみます。
人間はまず、
感情とは無関係な現実を認識する。
そのあとで、
好き。
嫌い。
怖い。
うれしい。
悲しい。
と感じるのでしょうか。
しかし、ここまで考えてきたことからすると、そう単純ではないように思えます。
内部表現は、
その人にとって何が重要なのかを評価している。
そして、
その重要性は、感情的価値をベースとしているのではないか。
だとすれば、
感情は、すでに完成した現実に対して後から付け加えられるものではありません。
何が重要なのか。
何に注意を向けるのか。
何を思い出すのか。
何を予測するのか。
そして、
何がその人の現実として立ち現れるのか。
その根底から、
感情的価値が関わっている可能性があります。
つまり、
感情は、現実に色をつけるだけのものではない。
そもそも、
どのような現実が立ち現れるのかという、その成立そのものに関わっているのではないか。
過去を消す必要はない
そして、この考察の先に、
もう一つのことが見えてきました。
人間は、過去を変えることはできません。
しかし、
過去が立ち現れる現在の内部表現は変えることができます。
過去の出来事を消す必要はありません。
忘れる必要さえないのかもしれません。
同じ過去を思い出しても、
以前とは違う重要性を与えることができる。
以前とは違う感情が立ち上がる。
以前とは違う現実として経験することができる。
だとすれば、
救済とは、
過去を消すことではなく、過去に支配されない現在の内部表現を獲得すること
なのかもしれません。
そして、そのように現在の内部表現が更新されていくことを、
私たちは、
「成長」
と呼んでいるのかもしれません。
ただし、
内部表現が変化することが、すべて成長なのではありません。
人間は経験によって、
以前より世界を恐れるようになることもあります。
人を信用できなくなることもあります。
現実を狭くしてしまうこともあります。
ここでいう成長とは、
単に内部表現が変わることではなく、
過去によって固定された内部表現から離れ、新しい経験を受け入れながら、現在の現実を更新できるようになること
なのではないでしょうか。
しかし、この「成長」という問題については、ここではこれ以上進めません。
今回考えたかったのは、
感情とは何なのか。
という問題だからです。
そして、ここまでの考察から、一つの可能性が見えてきました。
感情は、現実を経験したあとに生まれる反応ではないのかもしれない。
感情的価値が重要性を生み、
重要性が何を現実として立ち現れさせるのかに関わっている。
もしそうであるなら、
感情は内部表現に付随する一つの要素なのではなく、
内部表現による現実の構築を支えている、より根本的な要素なのかもしれません。
人間は、
論理によって世界を理解する以前から、
近づく。
逃げる。
求める。
避ける。
安心する。
恐れる。
という判断を繰り返してきました。
だとすれば、
私たちが現在、
「論理的に考えている」
と思っているその判断のさらに深いところにも、
感情的価値が存在しているのではないでしょうか。
そして、もしそうであるなら――
論理とは、本当に感情とは別のところから生まれたものなのでしょうか。
それとも、
人間の論理そのものが、感情的価値によって与えられた目的を実現するために生まれたものなのでしょうか。
次回は、この問題について考えてみたいと思います。
