芸術論講義室
2026-08-12 11:11:00
見えている情報と、その意味は同じなのだろうか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第5回 見えている情報と、その意味は同じなのだろうか
はじめに
これまで本章では、私たちが一枚の絵を見るとき、目に入っているすべての情報を同じように意識しているわけではないことについて考えてきました。
第3回では、「図と地」や「多義図形」を通して、
見えている。しかし、意識されていない。
という現象を見ました。
第4回では、FedExやTobleroneのロゴを例に、
見えている。しかし、意識されにくい情報を、意図してそこに置くことができる。
という事例を見てきました。
今回は、さらにもう一段進んでみたいと思います。
今回取り上げるのは、ハンス・ホルバインの《大使たち》です。
ハンス・ホルバイン《大使たち》
《大使たち》は、ハンス・ホルバインが1533年に描いた作品です。
画面左にはフランス王フランソワ1世の外交官ジャン・ド・ダントヴィル、右にはその友人であるラヴォール司教ジョルジュ・ド・セルヴが描かれています。二人の間には、天文学、数学、音楽などに関係するさまざまな器具や書物が並べられています。ロンドン・ナショナル・ギャラリーは、これらの品々について、二人の知性や教養を示すと同時に、当時の宗教的・政治的混乱を暗示するものとして解説しています。
一見すると、これは二人の人物の地位、知識、教養を極めて精密に描いた壮麗な肖像画です。
衣服の質感。
毛皮。
楽器。
書物。
地球儀。
天体観測のための器具。
画面のあらゆる場所に、当時の知識や権威を象徴する情報が描き込まれています。
ところが、その画面の中央下部に、どうにも説明のつかない奇妙な形があります。
二人の人物の足元を横切るように、細長く、大きく引き伸ばされた物体が描かれているのです。
正面から作品を見ている限り、それが何なのかは分かりません。
しかし、作品の右側から非常に斜めの角度で見ると、その奇妙な形は突然、
人間の頭蓋骨
として現れます。
このように、特定の角度から見ることで初めて正しい形として認識できるよう、あらかじめ歪めて描く技法を「アナモルフォーシス(歪像)」といいます。《大使たち》の頭蓋骨も、この技法によって描かれています。
頭蓋骨は隠されていない
ここで重要なのは、この頭蓋骨が「隠されている」わけではないということです。
むしろ逆です。
画面のかなり大きな領域を占めています。
しかも、作品の手前、目立つ位置に堂々と描かれています。
小さく描かれているわけでもありません。
物陰に隠されているわけでもありません。
背景と同化しているわけでもありません。
私たちは、それを最初から見ています。
それにもかかわらず、正面から見ている限り、それを「頭蓋骨」として認識することができません。
ここに、今回考えたい重要な問題があります。
見えていることと、意味を認識すること
私たちは普段、
「見えた」
ということと、
「それが何であるか分かった」
ということを、ほとんど同じものとして扱っています。
しかし、《大使たち》を見ると、この二つは明らかに別のものだと分かります。
画面中央下部の奇妙な形は見えています。
その輪郭も見えています。
色も見えています。
大きさも見えています。
位置も見えています。
つまり、視覚情報そのものは、すでに私たちの目に入っています。
ところが、
「これは頭蓋骨である」
という意味だけが認識されません。
ここに、
視覚情報そのものと、その情報が持つ意味の認識は別である
という問題が現れます。
そこにあるのは「ただの形」ではない
さらに重要なのは、この頭蓋骨が単なる図形ではないということです。
西洋美術における頭蓋骨は、古くから「メメント・モリ」の象徴として用いられてきました。
メメント・モリとは、「死を忘れるな」「人は必ず死ぬ」という意味を持つ表現です。
ナショナル・ギャラリーも、《大使たち》の頭蓋骨を、人間の死や、この世の業績の有限性を思い起こさせるものとして位置づけています。
ここで作品全体をもう一度見てみます。
画面には、
地位。
富。
知識。
学問。
科学。
音楽。
宗教。
外交。
当時の人間が築き上げてきた、さまざまな文化や文明の象徴が並んでいます。
その中心に立つ二人の人物も、社会的地位と知性を備えた人物として描かれています。
その一方で、画面の手前には巨大な頭蓋骨が存在しています。
つまり、
人間がどれほど富を持とうと、知識を持とうと、地位を持とうと、最後には死を迎える。
その意味を持つ情報が、作品の中に存在しているのです。
しかし、正面から作品を見ている鑑賞者には、その意味は簡単には認識されません。
意味はそこにある
ここでもう一度確認してみます。
頭蓋骨は、あとから現れるわけではありません。
特定の角度から見たときに、新しい絵が追加されるわけでもありません。
頭蓋骨を構成する情報は、
最初からそこにあります。
つまり、
私たちはその情報をすでに見ています。
ただし、
その情報が「死」を意味する頭蓋骨であることを認識していない。
この違いは非常に重要です。
第3回の「図と地」では、
同じ画面の中に複数の情報があり、その一方が意識から外れることを見ました。
第4回では、
その性質を利用して、意識されにくい情報をデザインの中へ意図的に組み込むことができることを見ました。
そして今回の《大使たち》では、
さらに一段進みます。
情報そのものが見えていても、その情報が持つ意味を認識できない状態をつくることができる。
ということです。
「見えない」のではない
ここは、非常に大切なので言葉を分けておきたいと思います。
《大使たち》の頭蓋骨は、
見えないのではありません。
見えています。
しかし、
意味が見えていない。
のです。
これは、単純な「隠し絵」とはかなり違います。
隠し絵なら、情報そのものを発見することが問題になります。
しかし《大使たち》では、情報は最初から目の前にあります。
問題は、
その情報を、脳が何として認識しているのか。
ということです。
奇妙な形として認識している間、その形は「頭蓋骨」という意味を持ちません。
しかし、見る位置を変えた瞬間、
同じ視覚情報が突然、
「頭蓋骨」
という意味を持ち始めます。
そして、その瞬間、
単なる奇妙な形だったものが、
「死」
という非常に強い意味を帯びることになります。
視覚情報と意味のあいだ
ここに、芸術を考えるうえで非常に興味深い問題があります。
一枚の絵の中には、色や形だけが存在しているわけではありません。
そこには、
人物。
物体。
象徴。
記号。
文化。
記憶。
経験。
さまざまな「意味」が重なっています。
しかし、その意味のすべてが、鑑賞した瞬間に顕在意識へ上がるわけではありません。
《大使たち》の頭蓋骨は、そのことを非常に分かりやすく示しています。
形は見えている。
情報は存在している。
しかし、
意味としては認識されていない。
それでも、その情報そのものは作品の中に存在し続けています。
強い意味を持つ情報を、意味として認識させない
ここまでくると、《大使たち》の事例が、FedExの矢印とは少し違うことも見えてきます。
FedExの矢印には、
前進。
方向。
スピード。
といった意味があります。
Tobleroneのクマにも、ベルンという土地につながる意味があります。
しかし、《大使たち》に組み込まれているのは、
死
です。
これは非常に強い意味を持つ情報です。
それほど強い意味を持つ情報であっても、
形を変えることで、
鑑賞者の目に入れながら、
その意味を顕在意識には上げない状態をつくることができます。
ここが、今回の事例で最も重要なところです。
見えている。しかし、意味は意識されていない
第3回では、
見えている。しかし、意識されていない。
という現象を見ました。
第4回では、
見えている。しかし、意識されにくい情報を、意図してそこに置くことができる。
という事例を見ました。
そして今回は、
見えている。しかし、その情報が持つ意味は意識されていない。
というところまで進みました。
それも、
単なる飾りや図形ではありません。
「死」という、人間にとって極めて強い意味を持つ情報です。
ハンス・ホルバインの《大使たち》は、視覚情報そのものと、その情報が持つ意味の認識が、必ずしも同じではないことを、非常に鮮明な形で示しています。
一枚の絵の中には、
目には入っている。
しかし、意味としてはまだ見えていない。
そのような情報を存在させることができるのです。
そして、この違いは、これから芸術が人間にどのような影響を与えるのかを考えていくうえで、非常に重要な意味を持つことになります。
2026-08-10 08:53:00
意識されない情報をデザインに組み込むことはできるのだろうか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第4回 意識されない情報をデザインに組み込むことはできるのだろうか
はじめに
前回、「図と地」や「多義図形」の事例から、私たちの目に入っている情報のすべてが、同じように意識されているわけではないことを見てきました。
では、この人間の認識の性質を、意図的にデザインへ利用することはできるのでしょうか。
その分かりやすい例の一つが、FedExのロゴです。
FedExのロゴを普通に見ると、まず「FedEx」という文字が目に入ります。
しかし、「E」と「x」の間をよく見てみると、そこには右向きの矢印が現れます。
この矢印は、線で直接描かれているわけではありません。
「E」と「x」の間に生まれる余白、いわゆるネガティブスペースによって形作られています。
そのため、矢印の存在を知らずにロゴを見ていると、それに気づかないことがあります。
しかし、一度その存在を知ってしまうと、今度ははっきりと矢印が見えてきます。
ここで重要なのは、
矢印は、最初からそこにあった
ということです。
あとから描き加えられたわけではありません。
私たちの目にも入っていました。
それでも、意識して認識していなかったのです。
これは、前回取り上げた「図と地」の関係ともよく似ています。
文字を「図」として認識しているとき、その間にある余白は「地」として扱われます。
しかし、その余白そのものに意味を持たせることで、もう一つの情報をデザインの中へ組み込むことができます。
FedExの矢印は、前進、方向、スピードといったイメージを連想させます。
つまり、意識して矢印を探していない鑑賞者に対しても、「FedEx」という文字とは別の意味を持った視覚情報が、同じロゴの中に存在していることになります。
このようなデザインは、FedExだけではありません。
例えば、Tobleroneの旧ロゴでは、山のシルエットの中にクマの姿が組み込まれていました。
クマは、Toblerone発祥の地であるスイス・ベルンを象徴する存在です。
最初に目に入るのは山です。
しかし、よく見ると、その中に別の意味を持った情報が存在していることに気づきます。
ここまで見てくると、前回取り上げた「図と地」や「多義図形」が、単なる錯視の面白い事例ではないことが分かります。
人間は、目に入ったすべての情報を同じように意識しているわけではありません。
そして、その性質を利用すれば、
意図された意味を持つ情報を、意識されにくい形でデザインの中へ組み込むことができます。
前回は、
見えている。しかし、意識されていない。
という現象を見ました。
今回は、そこから一歩進んで、
見えている。しかし、意識されにくい情報を、意図してそこに置くことができる。
という事例を見てきました。
同じ画面の中に、意識して認識される情報と、意識されにくい情報を同時に存在させる。
それもまた、デザインによって可能になる表現の一つなのです。
2026-08-09 23:35:00
見えているものは、すべて意識されているのだろうか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第3回 見えているものは、すべて意識されているのだろうか
一枚の絵を見るとき、私たちは、そこに描かれているすべてのものを同じように認識しているわけではありません。
そのことを非常に分かりやすく示すものに、「図と地」と呼ばれる現象があります。
よく知られている例が「ルビンの壺」です。
中央の部分を「壺」として見ると、壺の形がはっきりと見えてきます。
しかし、その左右に注目すると、今度は向かい合った二人の顔が現れます。
壺を見ているときにも、二人の顔を構成する情報が消えているわけではありません。
反対に、二人の顔を見ているときにも、壺を構成する情報はそこにあります。
画像そのものは何も変わっていません。
変わっているのは、私たちが何を「図」として認識し、何を「地」として扱っているかです。
人間は、あるものを「図」として認識すると、それ以外のものを「地」として扱います。
同じ視野の中に存在し、同時に目に入っているにもかかわらず、すべてが同じように意識されているわけではないのです。
同じような現象は、「多義図形」と呼ばれる図にも見ることができます。
有名な「アヒルとウサギ」の図があります。
同じ一枚の図が、あるときにはアヒルに見え、あるときにはウサギに見えます。
アヒルとして見えているときにも、ウサギとして認識するために必要な線はすべてそこにあります。
ウサギとして見えているときにも同じです。
図を描き替えたわけではありません。
目に入ってくる視覚情報そのものが変化したわけでもありません。
それでも、私たちが認識するものは変わります。
ここで重要なのは、
「目に入っていること」と「意識して認識していること」は同じではない
ということです。
前回取り上げた「視線誘導」では、人物の視線や構図などを利用することで、鑑賞者の視線や意識を特定の場所へ導くことができることを見てきました。
今回の「図と地」や「多義図形」は、それとは異なる現象です。
視線を別の場所へ誘導しなくても、同じ場所に複数の情報が存在し、そのうちの一つを認識することで、別の情報を意識から外すことができます。
つまり、ある情報を強く認識させることによって、同じ画面に存在する別の情報を意識から外すという方法も考えられます。
前回は、視線を誘導することで情報を意識から外す。
今回は、認識を利用することで別の情報を意識から外す。
方法は異なります。
しかし、どちらの場合も、その情報は鑑賞者の視界から消えているわけではありません。
見えている。しかし、意識されていない。
この違いは、これから芸術について考えていくうえで、重要な意味を持つことになります。
2026-08-06 13:29:00
構図は人の視線を操ることができるのだろうか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第2回 構図は人の視線を操ることができるのだろうか
広告やポスターでは、人物の視線や構図を利用し、鑑賞者の視線を意図した場所へ導く技法が広く利用されています。
例えば、赤ちゃんが商品を見つめる広告では、多くの人は赤ちゃんの視線を追い、その先にある商品やキャッチコピーへ自然と目を向けます。
このような視線誘導は、広告業界だけの技術ではありません。
古典芸術においても、同じような技法は古くから用いられてきました。
例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》では、人物の配置、弟子たちの視線、建築の遠近法など、画面全体の構図が、鑑賞者の視線を自然にキリストへ導くよう設計されています。
つまり、視線をコントロールするという表現技法は、芸術の世界で何百年も前から研究され、磨き上げられてきた技術なのです。
ここまでは、美術の世界ではよく知られた話です。
しかし、本書が着目するのは、この技法の別の使い方です。
視線誘導というと、多くの人は「見せたいものへ視線を導く技法」と考えます。
しかし、視点を変えると、まったく違う使い方も考えられます。
もし、鑑賞者の視線や意識を、何の意味もない対象へ意図的に誘導しておいて、意図した情報を、その視線の導線上へ配置することもできます。
鑑賞者は、その情報を確かに見ています。
しかし、意識は誘導された対象へ向いているため、その導線上に存在する情報は顕在意識には上りません。
第1部、第2部で考察した内容を前提とするならば、このような表現は、顕在意識ではなく潜在意識へ働きかける表現技法として利用することができます。
2026-08-05 09:44:00
立ち止まった理由は説明できるのだろうか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第1回 立ち止まった理由は説明できるのだろうか
「なぜ、その一枚の絵の前で立ち止まったのですか?」
そう尋ねられたとき、人は様々な理由を挙げることができます。
「色がきれいだった。」
「うまいと思った。」
「犬がかわいかった。」
このように、後から理由を説明することは難しくありません。
また、理由がはっきりしている場合もあります。
「見たことのある絵だった。」
「人物モデルが知っている人だった。」
「有名な画家の作品だった。」
「自分の作品制作の参考になると思った。」
しかし、その一方で、
「なぜ立ち止まったのか、自分でもよく分からない。」
というケースが確かに存在します。
本書では、この「理由が分からないにもかかわらず立ち止まってしまった」という現象に注目します。
なお、本書では、理由が明確に説明できる場合については扱いません。
ここまで第1部ではサブリミナル効果について、第2部では認知科学の視点から、人間は自覚していない情報からも影響を受ける可能性があることを考察してきました。
ここまでの考察を踏まえるならば、一枚の絵の前で立ち止まったという現象も、鑑賞者が意識していないレベルで作品から何らかの影響を受けた結果である、と考えることもできます。
もちろん、本書はこれを証明しようとするものではありません。
しかし、認知科学やデザインの分野には、人間が意識しないうちに視覚情報の影響を受ける可能性を示唆する事例が数多く存在します。
そこで次回以降は、人間が意識しないうちに視覚情報の影響を受ける可能性を示唆する代表的な事例を取り上げながら、「なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう」という問いについて考えていきます。
参考となる事例
「ジェームズ・ヴィカリーの映画館実験」
サブリミナル効果を語る上で最も有名な事例。
「FedExロゴの隠れた矢印」
ロゴの余白に組み込まれた情報が、無意識の印象形成に与える影響。
「Amazonロゴの矢印と笑顔」
一つの図形が複数の意味を持ち、見る人に自然な印象を与えるデザイン。
「広告・ポスターにおける視線誘導」
人物の視線や構図によって、鑑賞者の視線を自然に導く手法。
「色彩が感情に与える影響」
色そのものが心理や印象に作用し、感情へ影響を与える視覚表現。
「ゲシュタルト効果(図と地・補完)」
人間は欠けた情報を脳内で補完し、一つのまとまりとして認識するという知覚の特性。







