芸術論講義室
2026-08-09 23:35:00
一枚の絵を見るとき、私たちは、そこに描かれているすべてのものを同じように認識しているわけではありません。
そのことを非常に分かりやすく示すものに、「図と地」と呼ばれる現象があります。
よく知られている例が「ルビンの壺」です。
中央の部分を「壺」として見ると、壺の形がはっきりと見えてきます。
しかし、その左右に注目すると、今度は向かい合った二人の顔が現れます。
壺を見ているときにも、二人の顔を構成する情報が消えているわけではありません。
反対に、二人の顔を見ているときにも、壺を構成する情報はそこにあります。
画像そのものは何も変わっていません。
変わっているのは、私たちが何を「図」として認識し、何を「地」として扱っているかです。
人間は、あるものを「図」として認識すると、それ以外のものを「地」として扱います。
同じ視野の中に存在し、同時に目に入っているにもかかわらず、すべてが同じように意識されているわけではないのです。
同じような現象は、「多義図形」と呼ばれる図にも見ることができます。
有名な「アヒルとウサギ」の図があります。
同じ一枚の図が、あるときにはアヒルに見え、あるときにはウサギに見えます。
アヒルとして見えているときにも、ウサギとして認識するために必要な線はすべてそこにあります。
ウサギとして見えているときにも同じです。
図を描き替えたわけではありません。
目に入ってくる視覚情報そのものが変化したわけでもありません。
それでも、私たちが認識するものは変わります。
ここで重要なのは、
「目に入っていること」と「意識して認識していること」は同じではない
ということです。
前回取り上げた「視線誘導」では、人物の視線や構図などを利用することで、鑑賞者の視線や意識を特定の場所へ導くことができることを見てきました。
今回の「図と地」や「多義図形」は、それとは異なる現象です。
視線を別の場所へ誘導しなくても、同じ場所に複数の情報が存在し、そのうちの一つを認識することで、別の情報を意識から外すことができます。
つまり、ある情報を強く認識させることによって、同じ画面に存在する別の情報を意識から外すという方法も考えられます。
前回は、視線を誘導することで情報を意識から外す。
今回は、認識を利用することで別の情報を意識から外す。
方法は異なります。
しかし、どちらの場合も、その情報は鑑賞者の視界から消えているわけではありません。
見えている。しかし、意識されていない。
この違いは、これから芸術について考えていくうえで、重要な意味を持つことになります。
