芸術論講義室
2026-08-31 14:24:00
過去・現在・未来は、別々の現実なのか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第18回 過去・現在・未来は、別々の現実なのか
前回、私たちは記憶について考えました。
記憶とは、過去に起きた出来事を、そのまま保存し、必要なときに再生するものではありません。
私たちは現在において、過去の経験に関係するさまざまな情報をもとに、過去を再構築しています。
そして、その再構築には、
現在の内部表現
が大きく関わっているのではないかと考えました。
内部表現が変われば、同じ出来事を思い出しても、その意味が変わることがあります。
過去に起きた出来事そのものが変わるわけではありません。
しかし、
現在において経験される過去は変わり得る。
ここまで考えたところで、一つの疑問が生じました。
私たちは当然のように、
過去。
現在。
未来。
という三つの時間を分けて考えています。
そして、
過去の現実。
現在の現実。
未来の現実。
というように、それぞれを別々のものとして考えています。
しかし、人間が経験する「現実」というところから考えたとき、
過去・現在・未来は、本当に別々の現実なのでしょうか。
今回は、この問題について考えてみたいと思います。
まだ存在しない未来を、なぜ私たちは経験できるのか
この問題を考えるために、まず未来から始めてみます。
未来は、まだ起きていません。
例えば、
明日、大勢の人の前で重要な発表をするとします。
まだ発表は始まっていません。
失敗もしていません。
成功もしていません。
質問されてもいません。
何一つ起きていない。
それなのに、
「失敗したらどうしよう。」
「うまく話せなかったらどうしよう。」
「質問に答えられなかったらどうしよう。」
と考え、不安になることがあります。
逆に、
「きっとうまくいく。」
「みんなに伝わったらうれしい。」
「これをきっかけに新しいことが始まるかもしれない。」
と期待することもあります。
まだ何も起きていない未来が、
今の自分を不安にさせたり、今の自分に希望を与えたりしています。
これは少し不思議なことです。
未来の出来事そのものが、現在の自分に作用しているわけではありません。
未来の出来事は、まだ存在していないからです。
では、現在の自分を不安にさせたり、期待させたりしている「未来」とは何なのでしょう。
それは、
現在の自分が構築した未来
です。
私たちは、すべての未来を想像しているわけではない
未来には、無数の可能性があります。
しかし私たちは、そのすべてについて考えているわけではありません。
明日の朝、何羽の鳥が家の上を飛ぶのか。
一週間後、知らない町の知らない人が何を食べるのか。
十年後、どこかの森の一本の木から何枚の葉が落ちるのか。
そのような未来について、普通は考え続けません。
なぜでしょう。
自分にとって重要ではないからです。
反対に、
明日の仕事。
家族のこと。
健康のこと。
自分の将来。
楽しみにしている旅行。
心配している出来事。
こうした未来については何度も考えます。
つまり私たちは、無限に存在する未来の可能性の中から、
自分にとって重要な未来を選び出している
と考えることができます。
では、
何が重要で、
何が重要ではないのか。
その評価に関わっているものが、
これまで考えてきた内部表現ではないでしょうか。
内部表現は「重要性」を評価しているのではないか
これまで本書では、
現実とは、内部表現の写し鏡として立ち現れる
と考えてきました。
ここに今回、もう一つの視点を加えてみます。
外界にも、記憶にも、未来の可能性にも、膨大な情報があります。
人間は、そのすべてを同じ重さで扱っているわけではありません。
何を見るのか。
何を無視するのか。
何を覚えているのか。
何を思い出すのか。
何を予測するのか。
何を心配するのか。
何を期待するのか。
そこには常に、
「自分にとって重要かどうか」
という選別があります。
だとすれば、内部表現には、
その人にとって何が重要なのかを評価する働き
があるのではないでしょうか。
内部表現を、単なる知識や情報の集積として考えるだけでは不十分です。
その人が、
何を大切だと思うのか。
何を恐れるのか。
何を嫌うのか。
何を求めるのか。
何を失いたくないのか。
何に注意を向けるのか。
そうした重要性の評価まで含めて、内部表現が成立している。
そして、その評価によって、
何がその人の現実として立ち現れるのかが変わる。
そう考えることができます。
重要性は、何を基準に決まるのか
ここで、さらに一つの疑問が生じます。
では、人間は何を基準に、
「これは重要だ」
と判断しているのでしょう。
例えば、明日の発表が重要なのはなぜでしょう。
失敗したくない。
恥をかきたくない。
成功したい。
認めてもらいたい。
自分の考えを伝えたい。
その先に進みたい。
そこには、
不安。
恐怖。
期待。
希望。
喜び。
といった感情があります。
未来について何度も考えるのは、
単にその出来事についての情報を持っているからではありません。
その未来が、自分にとって何らかの感情的価値を持っているからではないでしょうか。
だとすれば、
人間にとっての重要性は、感情的価値をベースとしているのではないか。
という仮説が生まれます。
これは、今回の考察の途中で見えてきた新しい問題です。
そして、この問題は未来だけに関係するものではありません。
過去もまた、重要なものとして立ち現れる
では、過去について考えてみます。
私たちは、生まれてから現在までに膨大な出来事を経験しています。
しかし、そのすべてをいつでも思い出しているわけではありません。
昨日歩いた道で何歩歩いたのか。
一年前の今日、何時何分に何を見ていたのか。
十年前のある日の昼食で何を食べたのか。
その多くは、意識的に思い出すことさえありません。
一方で、何十年経っても忘れられない出来事があります。
怖かったこと。
悲しかったこと。
腹が立ったこと。
恥ずかしかったこと。
うれしかったこと。
大切な人との出来事。
人生を変えた出来事。
そこには多くの場合、
強い感情的価値があります。
もちろん、感情だけで記憶のすべてを説明することはできません。
しかし少なくとも、
現在の自分にとって何が重要なのかという評価が、
どの過去が意識に立ち現れるのかに深く関係していると考えることはできます。
そして前回考えたように、
過去を思い出すとき、その再構築には現在の内部表現が関わっている。
つまり、
過去もまた、現在の内部表現によって重要性を与えられ、現在に立ち現れている
と考えることができます。
では、現在は違うのだろうか
ここで現在について考えてみます。
現在だけは、過去や未来とは違うように思えます。
過去は記憶です。
未来は予測や想像です。
しかし現在は、
今、目の前に実際に存在している世界
です。
しかも私たちは、未来への不安や過去への後悔のように、現在のすべてに強い感情を抱いているわけではありません。
目の前に机がある。
窓がある。
道路がある。
木がある。
そのすべてに、喜びや悲しみを感じているわけではない。
ならば、現在だけは感情とは関係なく、外界をそのまま認識しているのでしょうか。
しかし、これまで本書で考えてきたことを思い出すと、そう単純ではありません。
外界には膨大な情報があります。
そのすべてが、私たちの意識に「現実」として立ち現れているわけではありません。
私たちは、
見るものと見ないもの。
気づくものと気づかないもの。
重要なものと重要ではないもの。
注意を向けるものと無視するもの。
を絶えず選別しています。
そして、その選別にも内部表現が関わっています。
木漏れ日は、以前からそこにあった
以前取り上げた、木漏れ日の例を思い出してみます。
毎日歩いている道に、木漏れ日があった。
光は以前から木々の間を通り抜け、地面に落ちていました。
しかし、その人はそれを意識していなかった。
ところが、街角のギャラリーで一枚の絵を見る。
そこには、美しい木漏れ日が描かれていた。
その後、いつもの道を歩いたとき、
初めて木漏れ日に気づく。
外界に新しく木漏れ日が生まれたわけではありません。
変化したのは、
その人にとっての木漏れ日の重要性
です。
それまで重要ではなかったものが、
美しいもの。
気になるもの。
見る価値のあるもの。
として内部表現の中に位置づけられた。
すると、
昨日まで意識されなかった木漏れ日が、
今日の現実に立ち現れる。
この例からも、
現在の現実は、外界に存在するすべての情報をそのまま映したものではないことが分かります。
現在の内部表現によって重要性を与えられたものを中心として、現在の現実が立ち現れている。
そう考えることができます。
現在の現実も、感情から独立しているのだろうか
ここまで考えると、現在についても新しい疑問が生じます。
木漏れ日が重要になったのは、
単に、
「木々の間を通過した光が地面に斑状の明暗を作っている」
という情報を知ったからでしょうか。
それだけではありません。
美しい。
という感情的価値が加わった。
だからこそ、それまで意識されなかったものが重要になったのではないでしょうか。
そうであれば、
現在の現実もまた、感情とは無関係ではありません。
私たちはまず無色透明な現実を認識し、その後で感情を付け加えているだけではないのかもしれません。
何が重要なのか。
何に注意を向けるのか。
何を現実として意識するのか。
その選別の根底に、すでに感情的価値が存在している可能性があります。
だとすれば、
現在の現実もまた、感情的価値をベースとした内部表現によって立ち現れている
ことになります。
過去・現在・未来に共通するもの
ここで、もう一度三つを並べてみます。
過去には、すでに起きた出来事があります。
現在には、今この瞬間の外界からの感覚入力があります。
未来には、まだ起きていない可能性があります。
この三つは同じものではありません。
しかし、
人間がそれらを「現実」として経験する仕組み
というところから見ると、共通した構造が見えてきます。
過去は、
現在の内部表現によって重要性を評価され、
記憶として再構築され、
現在に立ち現れる。
未来は、
現在の内部表現によって重要性を評価され、
予測や想像として構築され、
現在に立ち現れる。
現在は、
現在の内部表現によって重要性を評価され、
膨大な感覚情報の中から選別され、
現在の現実として立ち現れる。
つまり、
過去も、現在も、未来も、現在の内部表現を通して、現在に立ち現れている。
ここに、三者の共通点があります。
違うのは「現実」ではなく、その材料なのかもしれない
もちろん、過去・現在・未来を完全に同一のものだとすることはできません。
過去には記憶という材料があります。
現在には現在進行中の感覚入力があります。
未来には予測や想像があります。
使われる材料が違います。
しかし、人間が経験する現実という側から考えると、
それらはすべて、
現在の内部表現によって構築され、現在の意識に立ち現れている
という点では共通しています。
だとすれば、
私たちが、
「過去の現実」
「現在の現実」
「未来の現実」
と呼んでいるものは、
三つの独立した現実なのではなく、
一つの現実の中に、過去・現在・未来という異なる方向が存在している
と考えることもできるのではないでしょうか。
まだ、ここで結論を出す必要はありません。
しかし少なくとも、
過去・現在・未来を、最初から別々の現実として扱わなければならない理由はなくなってきました。
すべては「今」に立ち現れている
昨日の出来事を思い出しているとき、
私たちは昨日へ戻っているわけではありません。
今、昨日を経験しています。
明日の出来事を想像しているとき、
私たちは未来へ行っているわけではありません。
今、未来を経験しています。
そして現在についても、
外界に存在する膨大な情報のすべてをそのまま経験しているのではなく、
現在の内部表現によって重要性を与えられたものを中心として、
今、この現実を経験しています。
そう考えると、
過去・現在・未来という区別は、
人間が経験する「現実」そのものを三つに分割しているというより、
現在に立ち現れている現実を、時間という方向から分類している
だけなのかもしれません。
そして、感情という新しい問題が残った
今回、過去・現在・未来を考えている途中で、
予想していなかった問題が浮かび上がってきました。
それが、
感情
です。
人間は、何を重要だと判断するのでしょう。
なぜ、それを重要だと判断するのでしょう。
未来を不安に思う。
過去を後悔する。
現在の何かを美しいと思う。
危険を恐れる。
大切なものを失いたくないと思う。
何かを欲しいと思う。
何かを避けたいと思う。
その根底には、
感情的な価値
があります。
だとすれば、
内部表現に感情という要素が付け加わっているのではなく、
そもそも、
人間にとっての重要性そのものが、感情的価値をベースとしているのではないか。
そして内部表現が、
その人にとって何が重要なのかを評価する構造でもあるのなら、
さらに大きな疑問が生じます。
感情は、内部表現に影響を与える一つの要素にすぎないのでしょうか。
それとも、
感情的価値こそが、内部表現による重要性の評価を成立させている、より根本的な基盤なのでしょうか。
もしそうだとすれば、
内部表現の写し鏡として立ち現れる現実もまた、
最初から感情的な価値によって色づけられていることになります。
過去も。
現在も。
未来も。
私たちは、感情とは無関係な無色透明の現実をまず経験し、その後で喜んだり、悲しんだり、恐れたりしているのでしょうか。
それとも、
私たちが「現実」と呼んでいるものは、最初から感情によって色づけられているのでしょうか。
次回は、この問題について考えてみたいと思います。
2026-08-27 08:16:00
内部表現が変わると、過去も変わるのか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第17回 内部表現が変わると、過去も変わるのか
前回、私たちは、
内部表現の書き換えは、その人が生きている現実そのものの書き換えでもある
というところまで考えました。
現実とは、内部表現とは別に存在し、それを後から内部表現によって判断しているものではありません。
何を見るのか。
何を重要だと認識するのか。
出来事にどのような意味を与えるのか。
何を好み、何を嫌い、何を恐れるのか。
それらに内部表現が関わることによって、
その人が経験する現実そのものが成立している。
その意味において、
現実とは、内部表現の写し鏡である。
では、その内部表現そのものが書き換わったとき、変わるのは、
今、目の前にある現実
だけなのでしょうか。
今回は、
過去
について考えてみたいと思います。
私たちは、過去をどのように記憶しているのか
私たちは普通、
過去に経験した出来事が記憶として保存され、必要になったとき、その記憶を取り出しているように感じています。
まるで映像を保存しておき、後から再生するようなものです。
しかし、人間の記憶は、そのような単純な仕組みではありません。
過去の経験が、一つの完成した記録としてそのまま保存され、それが忠実に再生されているわけではありません。
経験に関係するさまざまな情報をもとに、
思い出すとき、過去の経験が再構築されます。
見たもの。
聞いたもの。
そのとき感じたこと。
出来事について知っていること。
その後に得た情報。
そうしたさまざまな要素から、
現在の自分が、
「あのとき、こういうことがあった」
という一つの記憶を再び作り上げる。
つまり、
思い出すとは、保存された過去をそのまま再生することではなく、現在において過去を再構築すること
だと考えることができます。
では、何をもとに過去は再構築されるのか
ここで、一つの疑問が生じます。
記憶が、完成した一つの記録として保存されているのではない。
思い出すたびに再構築される。
だとすれば、
その再構築は、何をもとに行われるのでしょう。
毎回、必ず同じ材料が選ばれ、
必ず同じように組み合わされ、
必ず同じ意味が与えられるのでしょうか。
もしそうでないのなら、
そこには何らかの、
記憶を組み立てる「設計図」のようなもの
が必要になります。
もちろん、脳の中に一枚の設計図が存在しているという意味ではありません。
何を取り出すのか。
何と何を結びつけるのか。
何を重要なものとして扱うのか。
そして、それらにどのような意味を与えるのか。
その再構築を方向づけるものです。
ここで、これまで考えてきた、
内部表現
が再び重要になってきます。
現在の内部表現が、過去を再構築する
例えば、
「あの人は嫌な奴だ」
という内部表現を持っているとします。
その人との過去を思い出す。
「あのとき、嫌な顔をされた。」
「あんな言い方をされた。」
「自分を避けていた。」
「あの態度もやっぱり嫌だった。」
さまざまな記憶が思い出されます。
そして、それらは、
「あの人は嫌な奴だ」
という現在の内部表現のもとで、一つの過去として再構築されます。
本人にとっては、
やはり昔から嫌な奴だった。
その過去には何の矛盾もありません。
現在の現実と同じように、
過去についての記憶もまた、
現在の内部表現によって意味づけられているからです。
内部表現が変わったあと、同じ過去を思い出したら
ところが、前回考えたような強烈な経験が起こったとします。
嫌な奴だと思っていた人物が、
自分の人生や生命に重大な危険が及ぶことを承知のうえで、
身を挺して自分を守った。
その経験によって、
それまでの現実が崩れ、
内部表現そのものが大きく書き換わった。
そして、もう一度その人物との過去を思い出す。
すると、
以前と同じ過去が、そのまま立ち現れるでしょうか。
「あのとき、本当に自分を避けていたのだろうか。」
「あの言葉には、別の意味があったのではないか。」
「あのときの表情を、自分は最初から悪意として受け取っていただけではないのか。」
「そういえば、以前にも助けてくれたことがあった。」
「自分のほうが最初から敵意を持って接していたのではないか。」
過去に起きた出来事そのものは変わっていません。
しかし、
その出来事の意味が変わっています。
同じ記憶の材料から、違う過去が立ち現れる
ここで起きていることを考えてみます。
過去について残っている情報が、すべて消えて新しいものへ置き換えられたわけではありません。
しかし、
それらを再構築するときに使われる現在の内部表現が変わった。
その結果、
何が重要な記憶として意識に上がるのか。
何と何が結びつくのか。
一つ一つの出来事にどのような意味が与えられるのか。
それらが変化する可能性があります。
だとすれば、
同じ過去について思い出しているにもかかわらず、以前とは違う過去が立ち現れる
ことになります。
昨日まで、
「あの人は昔から嫌な奴だった」
という過去を持っていた。
ところが今は、
「自分は、ずっとあの人を誤解していたのかもしれない」
という過去が立ち現れる。
過去の出来事そのものが変化したわけではありません。
しかし、
現在の自分が経験している過去は、確かに変化しています。
過去そのものが変わるのではない
ここは明確にしておく必要があります。
本書で、
「過去が変わる」
というとき、
過去に物理的に起きた出来事そのものが変化する、と言っているわけではありません。
起きた出来事そのものを、現在から変更することはできません。
しかし、
私たちは過去そのものへ戻ることもできません。
私たちが現在において経験できる過去とは、
記憶として再構築された過去
です。
そして、その記憶が現在において再構築されるのであれば、
私たちが経験する過去は、
現在の自分から完全に独立した固定物ではない
ということになります。
第三者が過去を書き換えることはできるのか
ここで、もう一つ重要な問題があります。
記憶の再構築に影響を与えるものは、自分自身の経験だけではありません。
第三者から与えられた情報によって、過去についての認識が変化することもあります。
しかし、ここまでの考察に従えば、
第三者が人間の頭の中にある記憶を直接書き換えている、と考える必要はありません。
第三者が働きかけることができるのは、
現在のその人
です。
新しい情報を与える。
別の解釈を示す。
映像を見せる。
言葉を与える。
感情を喚起する。
場合によっては、誤った情報を与えることもある。
それらが、
現在の内部表現へ作用する。
そして、その結果として現在の内部表現が変化すれば、
次に過去を思い出したとき、
変化した内部表現によって、本人自身が過去を再構築する
可能性があります。
つまり、
第三者が過去を直接書き換えるのではない。
第三者からの働きかけによって現在の内部表現が変化し、
その変化した内部表現によって、
本人自身が過去を再構築する。
この問題は、後に芸術が人間の認識へ与える影響を考えるうえでも、重要な意味を持つことになります。
今回は、ここまでにしておきます。
感情もまた、現在の内部表現を変える
前回、私たちは、
強烈な感情を伴った経験が、
内部表現そのものを一瞬にして書き換える可能性について考えました。
この感情についても、
記憶を直接書き換える独立した力として考える必要はありません。
強烈な感情を伴った経験によって、
現在の内部表現が変わる。
そして、
その変化した内部表現によって、
過去が再構築される。
第三者から与えられた情報も、
感情も、
新しい経験も、
それぞれが別々に過去へ入り込み、
記憶を書き換えていると考えるのではなく、
今回の考察では、
現在の内部表現への作用
というところへ一度集約して考えることができます。
そうすると、
記憶を再構築する「設計図」のようなものとして、
現在の内部表現が持つ意味が、さらに明確になってきます。
現在が、過去を作り直す
ここまで考えると、
少し不思議な関係が見えてきます。
私たちは普通、
過去があって、
その過去の積み重ねによって現在の自分が作られた、
と考えます。
もちろん、それは間違いではありません。
過去の経験によって内部表現が形成され、
その内部表現によって現在の現実を経験しています。
しかし、
記憶が現在において再構築されるのであれば、
逆方向も存在することになります。
過去が現在の内部表現を作る。
そして、
現在の内部表現が過去を再構築する。
つまり、
過去から現在へ一方向に流れているだけではありません。
現在の自分もまた、
自分が経験する過去に関わっている。
再構築された過去が、再び現在を作る
さらに、この関係はそこで終わりません。
現在の内部表現によって、
過去が再構築される。
そして、
再構築された過去を、
現在の自分が再び経験する。
例えば、
「あの人は昔から嫌な奴だった」
という過去が、
「自分は昔からあの人を誤解していたのかもしれない」
という過去へ変化したとします。
すると、その新しく再構築された過去は、
現在の、
「自分は、この人を誤解していたのだ」
という内部表現を、さらに強くする可能性があります。
すると、次に過去を思い出したとき、
さらに別の出来事が意識に上がるかもしれない。
別の意味が見えてくるかもしれない。
つまり、
現在の内部表現が過去を再構築し、再構築された過去が再び現在の内部表現へ作用する。
そこには、
一方向ではない循環が存在する可能性があります。
内部表現が変わると、自分の人生の意味まで変わる
ここまで来ると、
内部表現の書き換えが意味するものは、
前回考えた以上に大きなものになります。
内部表現が変われば、
目の前にある現実の見え方が変わる。
それだけではありません。
その内部表現によって過去を思い出せば、
それまで生きてきた過去の意味まで変化する可能性があります。
「あの出来事は、自分にとって最悪の出来事だった。」
そう思って何十年も生きてきた人がいる。
しかし、
現在の内部表現が大きく変わったあと、
同じ出来事を思い出したとき、
まったく別の意味を持った出来事として立ち現れることがあるかもしれません。
起きた出来事は変わらない。
しかし、
その出来事が自分の人生の中で何だったのか
は変わる。
だとすれば、
内部表現の書き換えによって変化するのは、
単なる現在の見方ではありません。
自分がどのような人生を生きてきたのかという、その人自身の現実まで再構築される可能性がある。
ということになります。
過去は、本当に過去にあるのだろうか
ここで、さらに一つの疑問が生じます。
私たちは、
過去、
現在、
未来、
と時間を分けて考えています。
しかし、
過去を思い出しているとき、
私たちは過去そのものへ戻っているのでしょうか。
そうではありません。
今、過去を思い出しています。
未来について不安になるときも、
まだ起きていない未来へ行っているわけではありません。
今、未来を想像しています。
過去は記憶として、
未来は予測や想像として、
そして目の前の世界は知覚として、
すべて今、この瞬間の私たちの現実に立ち現れています。
だとすれば、
ここで新しい問いが生まれます。
内部表現が作っているものを、
「現在の現実」
と限定して考える必要が、本当にあるのでしょうか。
もしかすると、
内部表現の写し鏡として立ち現れている現実には、
最初から、
過去も、
現在も、
未来も、
含まれているのかもしれません。
この問題は、今回の記憶の再構築というテーマを超えています。
ですから、ここではまだ結論を出しません。
しかし、
内部表現が変わることで、
目の前の現実だけではなく、
記憶として経験される過去まで変化し得ることを考えたとき、
この問いを避けて通ることもできなくなってきました。
私たちが「現実」と呼んでいるものの中で、過去・現在・未来は、本当に別々のものとして存在しているのでしょうか。
次回は、そこから考えてみたいと思います。
2026-08-26 08:36:00
内部表現は、どのように書き換わるのか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第16回 内部表現は、どのように書き換わるのか
前回、私たちは、
なぜ、内部表現は簡単には変わらないのか
について考えました。
そこで一つの重要なところまでたどり着きました。
私たちが経験している現実は、内部表現とは別に存在し、それを後から内部表現によって判断しているわけではありません。
何を見るのか。
何を重要だと認識するのか。
出来事にどのような意味を与えるのか。
何を好み、何を嫌い、何を恐れるのか。
それらに内部表現が関わることによって、
その人が経験する現実そのものが成立しています。
その意味において、
現実とは、内部表現の写し鏡である。
これが、今回の考察の前提になります。
内部表現を疑うことからは始まらない
では、内部表現はどのようにして変わるのでしょう。
まず重要なのは、
人は通常、自分の内部表現を疑わない
ということです。
これは当然です。
内部表現は、その人にとって単なる「考え方」ではありません。
その内部表現によって成立しているものこそが、その人が実際に経験している現実だからです。
例えば、
「あの人は嫌な奴だ」
という内部表現が強固に形成されているとします。
本人は、
「私は、あの人を嫌な奴だと解釈している」
などとは考えていません。
本人の現実には、
「嫌な奴がいる。」
それだけです。
その人と話せば、
「嫌な奴と話した。」
会話が無事に終われば、
「何とかやり過ごせた。」
そして、
「もう二度と話したくない。」
となるかもしれません。
そこには何の矛盾もありません。
内部表現の写し鏡として、その人の現実が成立しているからです。
したがって、
内部表現を疑ったから現実が揺らぐ
という順序ではありません。
そもそも現実が問題なく成立している間、内部表現を疑う理由がないのです。
まず、現実に亀裂が入る
では、何が起これば内部表現を疑うのでしょう。
それまでの内部表現では処理することのできないほどの経験が起きたとします。
例えば、
ずっと嫌な奴だと思っていた人物が、
自分を守るために、自分自身の人生や生命に重大な危険が及ぶことを承知のうえで、身を挺して自分を守った。
それほど強烈な出来事が起きたとします。
これは、
「今日は少し親切だった」
という程度の出来事ではありません。
それまでの内部表現の中へ簡単に取り込むことのできない経験です。
そのとき、
それまで何の矛盾もなく成立していた現実に、
初めて亀裂が入ります。
「あの人は嫌な奴だ。」
という、それまで疑う必要すらなかった現実が、そのままでは維持できなくなる。
ここで初めて、
「では、自分がこれまで現実だと思っていたものは何だったのだろう。」
という問題が生じます。
現実が崩れることで、内部表現が見えてくる
ここで順序を整理してみます。
それまでの内部表現では処理できない経験が起こる。
その結果、
現実に亀裂が入る。
さらに、それまでの現実を維持することができなくなる。
そこで初めて、
その現実を成立させていた内部表現そのものが、顕在意識による検討の対象になります。
つまり、
内部表現を疑うとは、自分の現実を疑うことです。
そして、
現実を疑うとは、自分の内部表現を疑うことです。
普段、この二つは分離していません。
内部表現が、その人の現実そのものとして機能しているからです。
現実に亀裂が入って初めて、
それまで現実と一体になっていた内部表現そのものが、意識の前に姿を現します。
しかし、疑っただけでは内部表現は変わらない
ここで注意しなければなりません。
自分の内部表現を疑うことができたからといって、
その瞬間に内部表現が書き換わるとは限りません。
頭では、
「私は、この人を間違って見ていたのかもしれない。」
と思うことができる。
しかし、次にその人物を見た瞬間、
やはり嫌悪感が生じるかもしれません。
身体が緊張するかもしれない。
避けたいと思うかもしれない。
なぜでしょう。
ここで、
感情
という問題が出てきます。
人間は、言葉より先に世界を経験していた
人間は、生まれた瞬間から言語を持っているわけではありません。
言葉によって世界を説明することも、
論理によって物事を検討することもできない時期があります。
しかし、その時期にも世界を経験しています。
怖い。
嫌だ。
安心する。
近づきたい。
逃げたい。
まだ、
「これは危険なものである。」
「これは自分にとって好ましいものである。」
という文章は存在していません。
それでも、
世界はすでに無色透明ではありません。
自分にとって、
近づくもの。
避けるもの。
安心するもの。
恐れるもの。
そうした違いが存在しています。
つまり、
人間は、言葉によって世界を説明するよりも前から、感情によって世界を色分けしていた
と考えることができます。
感情は、内部表現に後から付け加えられたものなのだろうか
ここで一つの可能性が見えてきます。
これまで、
「内部表現には感情が結びついている」
と考えてきました。
しかし、もっと根本的には、
感情は、すでに出来上がった内部表現に後から付け加えられたものではない
のかもしれません。
むしろ、
内部表現が形成されるその過程そのものに、感情が深く関わっていた
可能性があります。
言葉を持たない段階から、
何かを経験する。
怖い。
安心する。
嫌だ。
近づきたい。
そうした感情による価値づけが行われる。
その経験が積み重なり、
少しずつ世界についての内部表現が形成されていく。
そして内部表現が形成されれば、
今度はその内部表現によって、
何が重要なのか、
何を認識するのか、
どう感じるのかが決まっていく。
そう考えると、
内部表現と感情は、簡単に切り離すことのできない関係にあることが見えてきます。
論理は、後からやって来た
人間は成長すると、言葉を獲得します。
そして、
自分が経験している世界を言葉によって説明できるようになります。
「あの人は嫌いだ。」
「なぜなら、こういう人だからだ。」
そこには論理があります。
しかし、
その論理によって最初から内部表現が作られたとは限りません。
すでに感情によって色づけされている現実があり、
後から言葉によって、
「なぜ自分はそう感じるのか」
を説明している場合もあるでしょう。
だとすれば、
論理によって、
「あなたの認識は間違っています。」
「その人は悪い人ではありません。」
と説明されたとしても、
内部表現が簡単には変わらないことも理解できます。
そもそも、
論理によって作られたわけではない内部表現を、論理だけによって書き換えようとしている
可能性があるからです。
強烈な感情は、内部表現を書き換えることがあるのではないか
ここで、先ほどの例へ戻ります。
嫌な奴だと思っていた人物が、
自分の人生や生命を危険にさらしてまで、
自分を守った。
そのとき経験するのは、単なる新しい情報ではありません。
生命の危険。
恐怖。
絶望。
そして助けられた瞬間の安堵。
驚き。
戸惑い。
感謝。
それまでその人物に対して抱いていた感情とは、まったく異なる強烈な感情が生じる可能性があります。
その瞬間、
人間は本当に、
「これまでの情報を整理し、論理的に検討した結果、この人物についての評価を変更しよう」
などと考えるのでしょうか。
そうではない場合があるでしょう。
一瞬にして、その人の見え方そのものが変わる。
それまで「嫌な奴」として存在していた人物が、
同じ顔をして、
同じ声で、
同じ場所に立っている。
それなのに、
以前と同じ人物には見えない。
内部表現が変われば、現実が変わる
外界にいる人物そのものが変わったわけではありません。
変化したのは、
その人物についての内部表現です。
そして、
現実が内部表現の写し鏡であるならば、内部表現が変わった瞬間、その人が経験する現実も変わります。
昨日まで、
「嫌な奴」が存在していた。
ところが今、
同じ人物を見ても、
昨日までと同じ「嫌な奴」は、もうそこにはいない。
物理的な世界が変わったのではありません。
しかし、
その人が生きている現実は、確かに変わっています。
ここで起きているのは、
単なる知識の訂正ではありません。
単なる考え方の変更でもありません。
内部表現そのものの書き換えであり、その写し鏡としての現実の書き換えです。
感情が現実を書き換える
ここまでの考察から、一つの可能性が見えてきます。
人間は、
言語を獲得する以前から、
そして高度な論理的思考を行うようになる以前から、
感情によって世界に意味を与えてきたのかもしれません。
何を恐れるのか。
何を避けるのか。
何に安心するのか。
何へ近づくのか。
感情による価値づけが、
内部表現の形成そのものに関わってきた可能性があります。
だとすれば、
強烈な感情を伴う経験が、内部表現を一瞬にして大きく書き換えることがある
としても、不思議ではありません。
そこには、
必ずしも言葉による説明も、
論理的な検討も、
必要ではないのかもしれません。
世界が変わって見えたあとで、
人間は初めて、
「なぜ、自分には世界が違って見えるのだろう。」
と考えるのかもしれません。
内部表現の書き換えは、現実の書き換えである
ここまでを整理してみます。
人間が経験する現実は、
内部表現の写し鏡として立ち現れる。
そのため通常、
自分の内部表現を疑う理由はありません。
しかし、
既存の内部表現では処理できないほど強烈な経験が起こることがあります。
そのとき、
現実に亀裂が入る。
それまでの現実が崩れる。
そこで初めて、
その現実を成立させていた内部表現そのものが疑われる。
さらに、
強烈な感情を伴う新しい経験によって、
内部表現そのものが書き換わることがある。
そして、
内部表現が書き換われば、その写し鏡である現実も書き換わる。
つまり、
内部表現の書き換えとは、その人が生きている現実そのものの書き換えでもある。
ということになります。
では、
内部表現が書き換わったとき、
変わるのは、
「今、目の前にある現実」
だけなのでしょうか。
私たちは過去を、記憶として持っています。
しかし、その記憶は、本当に起きた出来事をそのまま保存したものなのでしょうか。
もし、
現在の内部表現を使って過去を思い出しているのだとしたら。
そして、
その内部表現そのものが変わってしまったとしたら。
同じ過去は、以前と同じ過去として思い出されるのでしょうか。
次回は、
内部表現が変わったとき、過去の現実には何が起こるのか。
そこから考えてみたいと思います。
2026-08-25 09:55:00
なぜ、内部表現は簡単には変わらないのか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第15回 なぜ、内部表現は簡単には変わらないのか
前回、私たちは、
内部表現が意識に上がると、なぜ現実は揺らぐのか
について考えました。
普段、私たちは、自分がどのような内部表現を使って現実を認識しているのかを意識していません。
ただ、
「これが現実だ」
と思って生きています。
しかし、何らかのきっかけによって、
「私は、なぜこのように現実を認識しているのだろう」
という問いが生まれることがあります。
そのとき、それまで現実を認識するために無意識に使われていた内部表現そのものが、顕在意識による検討の対象になります。
では、一度内部表現が意識に上がれば、それを簡単に変えることができるのでしょうか。
おそらく、そう単純ではありません。
今回は、
なぜ内部表現は、それほど簡単には変わらないのか。
そこから考えてみたいと思います。
内部表現は、単なる知識ではない
まず、ここを明確にしておく必要があります。
本書でいう内部表現は、単なる知識のことではありません。
新しい情報を知った。
間違っていた情報を訂正した。
そうした知識の追加や修正を、ここでは内部表現の書き換えとは考えません。
問題にしているのは、もっと根本的なものです。
世界とは、どのようなものなのか。
他者とは、どのような存在なのか。
自分とは、どのような人間なのか。
何が重要なのか。
何が怖いのか。
何を信じるのか。
何を嫌うのか。
何を当然だと思うのか。
何を現実だと思うのか。
そうした、その人が現実を認識することそのものに関わるものを、ここでは内部表現として考えています。
だから、内部表現は、
「少し考え方を変えてみる」
という程度のことで簡単に変化するものではありません。
内部表現には、感情が結びついている
例えば、
「あの人は嫌な奴だ」
という内部表現が、すでに強固に形成されているとします。
その人を見たとき、
嫌だ。
近づきたくない。
話したくない。
警戒する。
腹が立つ。
緊張する。
さまざまな感情や反応が起こるかもしれません。
つまり、
「あの人は嫌な奴だ」
という内部表現は、単なる言葉として頭の中に存在しているわけではありません。
そこには、それまでの経験があり、
記憶があり、
感情があり、
場合によっては身体の反応まで結びついています。
だから強い。
顕在意識で、
「ひょっとすると、自分はこの人を誤解しているのかもしれない」
と考えたからといって、
次に会った瞬間から、その人がまったく違って見えるとは限りません。
頭では疑うことができても、
その人を見た瞬間、
やはり嫌悪感が生じるかもしれない。
つまり、
内部表現を意識に上げることと、内部表現そのものが変わることは同じではありません。
内部表現は、新しい出来事を解釈する
さらに重要なことがあります。
私たちは、新しい出来事を何の前提もなく受け取っているわけではありません。
すでに持っている内部表現を使って、新しい出来事を認識します。
「あの人は嫌な奴だ」
という内部表現が成立している状態で、その人と話したとします。
思っていたより普通に会話できた。
だから、
「ひょっとすると、いい人なのかもしれない」
となるでしょうか。
おそらく、そう簡単ではありません。
むしろ、
「何とか今日もやり過ごすことができた。」
「やっと終わった。」
「もう二度と話したくない。」
そのような経験になるかもしれません。
重要なのは、
実際に会話が成立したという出来事があっても、
その出来事の意味そのものが、すでに存在する内部表現によって決められている
ということです。
何を認識するのかも、内部表現によって変わる
さらに、内部表現は出来事の意味を決めるだけではありません。
そもそも、
何を重要な出来事として認識するのか
にも関わっています。
人間は、外界から入ってくる膨大な情報のすべてを、同じ強さで意識しているわけではありません。
自分にとって重要なものが意識に上がります。
そして、
何が重要なのかを決めているものの一つが、内部表現です。
「あの人は嫌な奴だ」
という内部表現があれば、
相手の表情。
言葉遣い。
声の調子。
態度。
その中から、自分の内部表現に関係するものが強く意識される。
反対に、その内部表現にとって意味を持たないものは、見ていたとしても重要な出来事として意識に残らないことがあります。
つまり内部表現は、
新しい出来事を解釈するだけではなく、
その人にとって、何が現実として立ち現れるのかにも関わっています。
内部表現の写し鏡として、現実が立ち現れる
ここまで考えると、
内部表現と現実を、別々のものとして考えること自体が適切ではなくなってきます。
内部表現があり、
その後に現実を認識し、
最後に両者を照合しているのではありません。
内部表現によって、
何を見るのかが決まり、
何を重要だと思うのかが決まり、
出来事の意味が決まり、
感情が生じ、
行動が起こる。
それらが一体となって、
その人が経験している現実が成立します。
だとすれば、
その人が経験している現実とは、
その人の内部表現の写し鏡
と考えることができます。
ここでいう、
内部表現=現実
とは、その意味です。
外界そのものと内部表現が同じだという意味ではありません。
その人が実際に経験することのできる現実において、
内部表現と現実は切り離すことができない
ということです。
だから、内部表現と現実は矛盾しない
内部表現の写し鏡として、その人の現実が立ち現れているのであれば、
通常、
内部表現と、その人が経験している現実が矛盾することはありません。
「あの人は嫌な奴だ」
という内部表現を持っている人には、
実際に、
「嫌な奴が目の前にいる」という現実
が経験されています。
その人と話せば、
「嫌な奴と話をした」
という経験になる。
無事に会話が終われば、
「嫌な奴との会話を何とかやり過ごした」
という経験になる。
そして、
「やっぱり、もう関わりたくない」
となる。
本人にとっては、
何も矛盾していません。
むしろ、
現実を経験するたびに、自分が現実だと思っているものが確認されていきます。
だから、
「自分の見方が間違っているのではないか」
と疑う必要そのものがありません。
本人にとって、内部表現は「思い込み」ではない
他人から見れば、
「それは思い込みではないか」
と思うことがあるかもしれません。
しかし、本人にとっては違います。
本人は、
「私はこういう思い込みを持っている」
と思いながら世界を見ているわけではありません。
自分が経験する現実の中で、
何度も、
「やはりそうだ」
という経験をしています。
だから本人にとって、それは仮説ではありません。
現実です。
ここに、内部表現の強固さがあります。
内部表現を変えるということは、
単に一つの考え方を別の考え方へ置き換えることではありません。
その人が、
「これこそが現実だ」
と思って生きてきた世界そのものに関わる問題なのです。
内部表現を疑うことは、現実を疑うことになる
ここまで来ると、一つの重要な関係が見えてきます。
内部表現を疑うとは、自分の現実を疑うことになる。
なぜなら、
内部表現の写し鏡として、自分の現実が成立しているからです。
そして逆も成立します。
現実を疑うとは、自分の内部表現を疑うことになる。
それまで、
「世界とはこういうものだ」
と思っていた。
しかし、何らかの理由によって、
「本当にそうなのだろうか。」
という疑問が生じる。
その瞬間、
それまで現実そのものと一体になっていた内部表現にも、疑いが向かいます。
この二つは切り離すことができません。
内部表現が揺らげば、現実が揺らぐ。
そして、
現実が揺らげば、内部表現も揺らぐ。
では、どうすれば現実に亀裂が入るのか
ここで問題が生じます。
内部表現の写し鏡として現実が成立している。
その現実は、内部表現と矛盾しない。
では、
いったい何が起これば、その現実に亀裂が入るのでしょう。
通常の出来事であれば、既存の内部表現によって処理することができます。
多少予想外のことが起きても、それまでの現実の中へ取り込むことができます。
しかし、ときとして、
それまでの内部表現では、どうしても処理しきれない出来事
が起こることがあります。
例えば、
ずっと嫌な人間だと思っていた人物が、
自分を助けるために、
自分自身を危険にさらしてまで守ってくれた。
そこまで強烈な出来事が起きたとします。
単に親切にされた程度なら、
これまでの内部表現の中で処理できるかもしれません。
しかし、
それまでの内部表現では、どうしても説明しきれない出来事が目の前で起きた。
そのとき、
初めて、
「おかしい。」
が生まれます。
現実の側から、内部表現が揺さぶられる
ここで重要なのは、
内部表現と、それによって構築された現実が矛盾したのではないということです。
それまでは、
内部表現の写し鏡として、現実は問題なく成立していました。
しかし、
それまでの内部表現では従来どおりの現実を構築し続けることが困難になるほどの出来事
が入ってきた。
そのとき初めて、
それまで疑う必要すらなかった内部表現そのものが、意識に上がる可能性があります。
「私は、あの人を嫌な人間だと思っていた。」
しかし、
「本当にそうなのだろうか。」
ここで初めて、
それまで世界を見るために使っていた内部表現そのものへ、意識が向かいます。
現実が崩れるから、内部表現が見えることもある
前回は、
内部表現が意識に上がることで、
現実の自明性が揺らぐことを考えました。
しかし、ここまで考えてくると、
逆方向も存在することが分かります。
内部表現が意識に上がることで、現実が揺らぐ。
そして、
それまでの現実が維持できなくなることで、内部表現そのものが意識に上がる。
この二つは、互いに関係しています。
普段は、
内部表現と現実が一体になっている。
だから内部表現は見えません。
しかし、
その現実に大きな亀裂が入る。
すると、
「自分は、何によってこの現実を見ていたのだろう。」
という問いが生まれる。
ここで、
内部表現が顕在意識へ姿を現します。
現実が崩れるとは何か
ここでいう、
「現実が崩れる」
とは、物理的な世界が崩壊するという意味ではありません。
それまで疑う必要すらなかった、
「これが現実である」
という確信が、そのままでは維持できなくなるということです。
そして、内部表現と現実が切り離せないのであれば、
内部表現を書き換えるということは、それまでの現実そのものが揺らぐことを伴う
可能性があります。
だから内部表現は、簡単には変わらない。
それは単なる知識でも、
単なる考え方でもないからです。
その人が、それまで実際に生きてきた現実そのものだからです。
しかし――
現実に亀裂が入ったからといって、
それまでの内部表現が、その瞬間に消えてなくなるわけではありません。
頭では、
「自分は間違っていたのかもしれない」
と考えることができる。
それでも、
その人を見れば、
以前と同じ感情が生じるかもしれません。
嫌悪感。
恐怖。
怒り。
不安。
それまで内部表現と結びついていた感情は、簡単には消えない。
ここには、
顕在意識で理解することと、内部表現そのものが変化することとの間に、まだ大きな隔たりがあります。
では――
現実に亀裂が入り、それまでの内部表現を疑うことができるようになったあと、内部表現そのものが本当に変わるためには、何が起こらなければならないのでしょう。
次は、そこから考えてみたいと思います。
2026-08-24 09:01:00
内部表現が意識に上がると、なぜ現実は揺らぐのか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第14回 内部表現が意識に上がると、なぜ現実は揺らぐのか
前回まで、私たちは内部表現と現実の関係について考えてきました。
人間は、外界から入ってくる膨大な情報を、そのまますべて認識しているわけではありません。
これまでの経験によって形成された内部表現を使い、
何が重要なのか。
何に注意を向けるのか。
何と何を同じものとしてまとめるのか。
起きた出来事にどのような意味を与えるのか。
そうした処理を行いながら、現実を認識しています。
そして、その内部表現のすべてを、自分自身で作ったわけでもありません。
言葉。
家庭。
教育。
社会。
文化。
時代。
そして、自分自身の経験。
さまざまなものによって内部表現は形成され、その内部表現を使って、私たちは現在の現実を認識しています。
では、その普段は意識することのない内部表現そのものが、意識に上がったとき、何が起こるのでしょう。
今回は、この問題を考えてみたいと思います。
私たちは、いちいち世界を考えながら生きているわけではない
朝、目を覚まします。
時計を見ます。
服を着ます。
家を出ます。
道を歩きます。
人とすれ違います。
信号を見ます。
店へ入ります。
仕事をします。
その一つ一つについて、
「これは何だろう。」
「なぜ私はこうしているのだろう。」
「本当にこれは正しいのだろうか。」
と考えながら生活しているわけではありません。
多くのことは、ほとんど意識することなく処理されています。
これは道だ。
赤信号だから止まる。
これは仕事だ。
この人は知っている人だ。
ここではこう振る舞う。
私たちは、それまでに形成されてきた内部表現を使いながら、膨大な情報を処理しています。
だからこそ、日常生活を送ることができます。
もし、目に入るものすべてについて、その意味を一から考え直さなければならないとしたら、日常生活そのものが成り立たないでしょう。
つまり、
内部表現による無意識の処理は、人間が安定した現実を生きるために必要な仕組みでもあります。
内部表現は、普段は意識されない
ここで重要なことがあります。
私たちは内部表現を使って現実を認識していますが、
その内部表現そのものを見ながら生活しているわけではありません。
例えば、ある人を、
「感じの悪い人だ」
と思っているとします。
普通は、
「私は、これまで形成されてきた内部表現によって、この人物を『感じの悪い人』として認識している」
とは考えません。
ただ、
「あの人は感じが悪い」
と思います。
つまり、自分の認識と現実が、ほとんど一体になっています。
内部表現は、認識の対象になっているのではありません。
現実を認識するために使われています。
だから、普段は意識されないのです。
ところが、その内部表現そのものが意識に上がる
しかし、何らかの出来事をきっかけに、
「なぜ私は、そう思っているのだろう。」
という疑問が生まれることがあります。
先ほどの例なら、
「あの人は感じが悪い」
と思っていた。
ところが、何かをきっかけに、
「なぜ私は、あの人を感じが悪いと思っているのだろう。」
と考える。
ここで大きな変化が起こっています。
それまで意識が向いていたのは、
「あの人」
でした。
ところが今度は、
「あの人を感じが悪いと思っている自分」
へ意識が向いています。
それまで現実を認識するために使っていた内部表現そのものが、意識の対象になったのです。
無意識に処理されていたものが、顕在意識による検討の対象になる
内部表現が意識に上がるということは、
それまで無意識に処理されていたものが、
顕在意識による検討の対象になる
ということでもあります。
なぜ私はそう思うのだろう。
いつからそう思っていたのだろう。
何か経験があったのだろうか。
誰かから教えられたのだろうか。
本当にそうなのだろうか。
それまで自動的に使われていた内部表現に対して、意識による検討が始まります。
言い換えれば、
自分自身から一歩退き、それまで自分がはまり込んでいた現実と、その現実を認識している自分を見る
ような状態です。
もちろん、完全に自分の外側へ出られるわけではありません。
人間は、自分の認識そのものから完全に離れることはできません。
それでも、
「私は、こう認識している」
ということ自体を意識の対象にすることはできます。
「これが現実だ」から「私はこれを現実として認識している」へ
ここで起こる変化を、非常に単純な言葉にしてみます。
それまでは、
「これが現実だ。」
でした。
ところが内部表現が意識に上がると、
「私は、これを現実として認識している。」
へ変わる可能性があります。
わずかな違いに見えます。
しかし、この二つには大きな違いがあります。
「これが現実だ」
という状態では、そこに疑問を差し込む余地はほとんどありません。
しかし、
「私は、これを現実として認識している」
となれば、
「なぜ私は、そのように認識しているのだろう。」
という問いが生まれます。
そして、その問いから、
自分自身の経験、
親から教えられたこと、
教育、
社会、
文化、
時代、
それまで形成されてきた内部表現へと遡ることができます。
世界と自分は、本当に切り離されていたのだろうか
私たちは普段、
自分とは関係なく、世界がそこに存在しているように感じています。
そして、その世界を自分が見ている。
しかし、ここまで考えてきたことを前提とするならば、
少なくとも、
自分が経験している現実のあり方は、自分の内部表現と無関係ではありません。
同じ街を歩いていても、内部表現が違えば意識に上がるものが違う。
同じ出来事でも、内部表現が違えば意味が違う。
内部表現が変われば、それまで見えなかったものが見えることもある。
だとすれば、
自分とは無関係に存在すると考えていた「自分が経験している現実」が、実は自分自身の内部表現と連動しているのではないか。
そんなことに気づく可能性が出てきます。
ここで、
それまで確固としていた現実に、わずかな揺らぎが生まれます。
しかし、「本当の現実」が見えるわけではない
ここで、一つ重要なことがあります。
内部表現が意識に上がったからといって、
内部表現を取り外し、
その向こう側にある「本当の現実」を直接見ることができるわけではありません。
人間は、自分の感覚や認識を通してしか世界を経験することができません。
内部表現が変われば、新しい内部表現によって世界を認識することになります。
つまり、
内部表現を通して認識した現実と、内部表現を完全に取り除いた現実を並べて比較することはできません。
私たちが経験できるのは、
そのとき自分が持っている内部表現を通して構築された現実です。
だから、その人にとっては、
それが単なる仮の世界なのではありません。
それこそが、その人が実際に生きている現実です。
では、何が揺らぐのか
外界そのものが揺らぐわけではありません。
道路が消えるわけでも、
建物が突然別のものになるわけでもありません。
また、
「今までの現実は偽物だった」
と分かるわけでもありません。
揺らぐのは、
「自分が認識している現実こそが、唯一そのままの現実である」
という自明性です。
それまで、
「世界とはこういうものだ」
と思っていた。
しかし、
「私は、自分の内部表現によって世界をこのように認識しているのではないか」
という可能性に気づく。
すると、
内部表現が異なれば、同じ世界が別の現実として認識される可能性
も見えてきます。
これが、
現実が揺らぐ
ということなのではないでしょうか。
現実が壊れるのではない
現実が揺らぐというと、何か不安定な状態になるように聞こえるかもしれません。
しかし、必ずしもそういう意味ではありません。
それまで唯一だと思っていた現実に、
別の見方が存在する可能性が生まれる。
ということです。
「あの人は感じが悪い」
という現実しかなかったところに、
「私は、なぜそう感じているのだろう」
という問いが生まれる。
「これが普通だ」
という現実しかなかったところに、
「なぜ私は、これを普通だと思っているのだろう」
という問いが生まれる。
「こう生きるべきだ」
と思っていたところに、
「なぜ私は、そう生きなければならないと思っているのだろう」
という問いが生まれる。
世界が壊れたのではありません。
世界について問い直す余地が生まれたのです。
内部表現を意識するということ
ここまで考えてくると、
内部表現を意識に上げるということの意味が見えてきます。
それは、
自分が現実だと思っているものから一歩退き、その現実を認識している自分自身を見ること
です。
そして、
「なぜ私は、この世界をこのように認識しているのだろう。」
と問い始めることです。
その瞬間、
それまで無意識に使われていた内部表現が、顕在意識による検討の対象になります。
しかし、ここでまだ内部表現が変わったわけではありません。
現実を書き換えたわけでもありません。
ただ、
それまで現実そのものとして使われていた内部表現が、初めて「見ることのできるもの」になった。
ここに大きな意味があります。
なぜなら、
意識することのできなかったものについて、私たちは意識的に検討することができないからです。
まず、気づかなければならない。
自分が世界をどのように見ているのか。
なぜ、そのように見ているのか。
その内部表現は、どこから来たのか。
ここで初めて、
自分が生きている現実そのものを問い直すことが可能になります。
しかし、ここで新しい疑問が生まれます。
内部表現が意識に上がった。
それまで確定していた現実に、別の可能性が生まれた。
では――
一度意識に上がった内部表現を、人間は自ら書き換えることができるのでしょうか。
そしてもし、
内部表現を書き換えることができるとしたら、その人が生きている現実には何が起こるのでしょう。
