芸術論講義室
2026-08-27 08:16:00
内部表現が変わると、過去も変わるのか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第17回 内部表現が変わると、過去も変わるのか
前回、私たちは、
内部表現の書き換えは、その人が生きている現実そのものの書き換えでもある
というところまで考えました。
現実とは、内部表現とは別に存在し、それを後から内部表現によって判断しているものではありません。
何を見るのか。
何を重要だと認識するのか。
出来事にどのような意味を与えるのか。
何を好み、何を嫌い、何を恐れるのか。
それらに内部表現が関わることによって、
その人が経験する現実そのものが成立している。
その意味において、
現実とは、内部表現の写し鏡である。
では、その内部表現そのものが書き換わったとき、変わるのは、
今、目の前にある現実
だけなのでしょうか。
今回は、
過去
について考えてみたいと思います。
私たちは、過去をどのように記憶しているのか
私たちは普通、
過去に経験した出来事が記憶として保存され、必要になったとき、その記憶を取り出しているように感じています。
まるで映像を保存しておき、後から再生するようなものです。
しかし、人間の記憶は、そのような単純な仕組みではありません。
過去の経験が、一つの完成した記録としてそのまま保存され、それが忠実に再生されているわけではありません。
経験に関係するさまざまな情報をもとに、
思い出すとき、過去の経験が再構築されます。
見たもの。
聞いたもの。
そのとき感じたこと。
出来事について知っていること。
その後に得た情報。
そうしたさまざまな要素から、
現在の自分が、
「あのとき、こういうことがあった」
という一つの記憶を再び作り上げる。
つまり、
思い出すとは、保存された過去をそのまま再生することではなく、現在において過去を再構築すること
だと考えることができます。
では、何をもとに過去は再構築されるのか
ここで、一つの疑問が生じます。
記憶が、完成した一つの記録として保存されているのではない。
思い出すたびに再構築される。
だとすれば、
その再構築は、何をもとに行われるのでしょう。
毎回、必ず同じ材料が選ばれ、
必ず同じように組み合わされ、
必ず同じ意味が与えられるのでしょうか。
もしそうでないのなら、
そこには何らかの、
記憶を組み立てる「設計図」のようなもの
が必要になります。
もちろん、脳の中に一枚の設計図が存在しているという意味ではありません。
何を取り出すのか。
何と何を結びつけるのか。
何を重要なものとして扱うのか。
そして、それらにどのような意味を与えるのか。
その再構築を方向づけるものです。
ここで、これまで考えてきた、
内部表現
が再び重要になってきます。
現在の内部表現が、過去を再構築する
例えば、
「あの人は嫌な奴だ」
という内部表現を持っているとします。
その人との過去を思い出す。
「あのとき、嫌な顔をされた。」
「あんな言い方をされた。」
「自分を避けていた。」
「あの態度もやっぱり嫌だった。」
さまざまな記憶が思い出されます。
そして、それらは、
「あの人は嫌な奴だ」
という現在の内部表現のもとで、一つの過去として再構築されます。
本人にとっては、
やはり昔から嫌な奴だった。
その過去には何の矛盾もありません。
現在の現実と同じように、
過去についての記憶もまた、
現在の内部表現によって意味づけられているからです。
内部表現が変わったあと、同じ過去を思い出したら
ところが、前回考えたような強烈な経験が起こったとします。
嫌な奴だと思っていた人物が、
自分の人生や生命に重大な危険が及ぶことを承知のうえで、
身を挺して自分を守った。
その経験によって、
それまでの現実が崩れ、
内部表現そのものが大きく書き換わった。
そして、もう一度その人物との過去を思い出す。
すると、
以前と同じ過去が、そのまま立ち現れるでしょうか。
「あのとき、本当に自分を避けていたのだろうか。」
「あの言葉には、別の意味があったのではないか。」
「あのときの表情を、自分は最初から悪意として受け取っていただけではないのか。」
「そういえば、以前にも助けてくれたことがあった。」
「自分のほうが最初から敵意を持って接していたのではないか。」
過去に起きた出来事そのものは変わっていません。
しかし、
その出来事の意味が変わっています。
同じ記憶の材料から、違う過去が立ち現れる
ここで起きていることを考えてみます。
過去について残っている情報が、すべて消えて新しいものへ置き換えられたわけではありません。
しかし、
それらを再構築するときに使われる現在の内部表現が変わった。
その結果、
何が重要な記憶として意識に上がるのか。
何と何が結びつくのか。
一つ一つの出来事にどのような意味が与えられるのか。
それらが変化する可能性があります。
だとすれば、
同じ過去について思い出しているにもかかわらず、以前とは違う過去が立ち現れる
ことになります。
昨日まで、
「あの人は昔から嫌な奴だった」
という過去を持っていた。
ところが今は、
「自分は、ずっとあの人を誤解していたのかもしれない」
という過去が立ち現れる。
過去の出来事そのものが変化したわけではありません。
しかし、
現在の自分が経験している過去は、確かに変化しています。
過去そのものが変わるのではない
ここは明確にしておく必要があります。
本書で、
「過去が変わる」
というとき、
過去に物理的に起きた出来事そのものが変化する、と言っているわけではありません。
起きた出来事そのものを、現在から変更することはできません。
しかし、
私たちは過去そのものへ戻ることもできません。
私たちが現在において経験できる過去とは、
記憶として再構築された過去
です。
そして、その記憶が現在において再構築されるのであれば、
私たちが経験する過去は、
現在の自分から完全に独立した固定物ではない
ということになります。
第三者が過去を書き換えることはできるのか
ここで、もう一つ重要な問題があります。
記憶の再構築に影響を与えるものは、自分自身の経験だけではありません。
第三者から与えられた情報によって、過去についての認識が変化することもあります。
しかし、ここまでの考察に従えば、
第三者が人間の頭の中にある記憶を直接書き換えている、と考える必要はありません。
第三者が働きかけることができるのは、
現在のその人
です。
新しい情報を与える。
別の解釈を示す。
映像を見せる。
言葉を与える。
感情を喚起する。
場合によっては、誤った情報を与えることもある。
それらが、
現在の内部表現へ作用する。
そして、その結果として現在の内部表現が変化すれば、
次に過去を思い出したとき、
変化した内部表現によって、本人自身が過去を再構築する
可能性があります。
つまり、
第三者が過去を直接書き換えるのではない。
第三者からの働きかけによって現在の内部表現が変化し、
その変化した内部表現によって、
本人自身が過去を再構築する。
この問題は、後に芸術が人間の認識へ与える影響を考えるうえでも、重要な意味を持つことになります。
今回は、ここまでにしておきます。
感情もまた、現在の内部表現を変える
前回、私たちは、
強烈な感情を伴った経験が、
内部表現そのものを一瞬にして書き換える可能性について考えました。
この感情についても、
記憶を直接書き換える独立した力として考える必要はありません。
強烈な感情を伴った経験によって、
現在の内部表現が変わる。
そして、
その変化した内部表現によって、
過去が再構築される。
第三者から与えられた情報も、
感情も、
新しい経験も、
それぞれが別々に過去へ入り込み、
記憶を書き換えていると考えるのではなく、
今回の考察では、
現在の内部表現への作用
というところへ一度集約して考えることができます。
そうすると、
記憶を再構築する「設計図」のようなものとして、
現在の内部表現が持つ意味が、さらに明確になってきます。
現在が、過去を作り直す
ここまで考えると、
少し不思議な関係が見えてきます。
私たちは普通、
過去があって、
その過去の積み重ねによって現在の自分が作られた、
と考えます。
もちろん、それは間違いではありません。
過去の経験によって内部表現が形成され、
その内部表現によって現在の現実を経験しています。
しかし、
記憶が現在において再構築されるのであれば、
逆方向も存在することになります。
過去が現在の内部表現を作る。
そして、
現在の内部表現が過去を再構築する。
つまり、
過去から現在へ一方向に流れているだけではありません。
現在の自分もまた、
自分が経験する過去に関わっている。
再構築された過去が、再び現在を作る
さらに、この関係はそこで終わりません。
現在の内部表現によって、
過去が再構築される。
そして、
再構築された過去を、
現在の自分が再び経験する。
例えば、
「あの人は昔から嫌な奴だった」
という過去が、
「自分は昔からあの人を誤解していたのかもしれない」
という過去へ変化したとします。
すると、その新しく再構築された過去は、
現在の、
「自分は、この人を誤解していたのだ」
という内部表現を、さらに強くする可能性があります。
すると、次に過去を思い出したとき、
さらに別の出来事が意識に上がるかもしれない。
別の意味が見えてくるかもしれない。
つまり、
現在の内部表現が過去を再構築し、再構築された過去が再び現在の内部表現へ作用する。
そこには、
一方向ではない循環が存在する可能性があります。
内部表現が変わると、自分の人生の意味まで変わる
ここまで来ると、
内部表現の書き換えが意味するものは、
前回考えた以上に大きなものになります。
内部表現が変われば、
目の前にある現実の見え方が変わる。
それだけではありません。
その内部表現によって過去を思い出せば、
それまで生きてきた過去の意味まで変化する可能性があります。
「あの出来事は、自分にとって最悪の出来事だった。」
そう思って何十年も生きてきた人がいる。
しかし、
現在の内部表現が大きく変わったあと、
同じ出来事を思い出したとき、
まったく別の意味を持った出来事として立ち現れることがあるかもしれません。
起きた出来事は変わらない。
しかし、
その出来事が自分の人生の中で何だったのか
は変わる。
だとすれば、
内部表現の書き換えによって変化するのは、
単なる現在の見方ではありません。
自分がどのような人生を生きてきたのかという、その人自身の現実まで再構築される可能性がある。
ということになります。
過去は、本当に過去にあるのだろうか
ここで、さらに一つの疑問が生じます。
私たちは、
過去、
現在、
未来、
と時間を分けて考えています。
しかし、
過去を思い出しているとき、
私たちは過去そのものへ戻っているのでしょうか。
そうではありません。
今、過去を思い出しています。
未来について不安になるときも、
まだ起きていない未来へ行っているわけではありません。
今、未来を想像しています。
過去は記憶として、
未来は予測や想像として、
そして目の前の世界は知覚として、
すべて今、この瞬間の私たちの現実に立ち現れています。
だとすれば、
ここで新しい問いが生まれます。
内部表現が作っているものを、
「現在の現実」
と限定して考える必要が、本当にあるのでしょうか。
もしかすると、
内部表現の写し鏡として立ち現れている現実には、
最初から、
過去も、
現在も、
未来も、
含まれているのかもしれません。
この問題は、今回の記憶の再構築というテーマを超えています。
ですから、ここではまだ結論を出しません。
しかし、
内部表現が変わることで、
目の前の現実だけではなく、
記憶として経験される過去まで変化し得ることを考えたとき、
この問いを避けて通ることもできなくなってきました。
私たちが「現実」と呼んでいるものの中で、過去・現在・未来は、本当に別々のものとして存在しているのでしょうか。
次回は、そこから考えてみたいと思います。
