芸術論講義室
2026-08-24 09:01:00
内部表現が意識に上がると、なぜ現実は揺らぐのか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第14回 内部表現が意識に上がると、なぜ現実は揺らぐのか
前回まで、私たちは内部表現と現実の関係について考えてきました。
人間は、外界から入ってくる膨大な情報を、そのまますべて認識しているわけではありません。
これまでの経験によって形成された内部表現を使い、
何が重要なのか。
何に注意を向けるのか。
何と何を同じものとしてまとめるのか。
起きた出来事にどのような意味を与えるのか。
そうした処理を行いながら、現実を認識しています。
そして、その内部表現のすべてを、自分自身で作ったわけでもありません。
言葉。
家庭。
教育。
社会。
文化。
時代。
そして、自分自身の経験。
さまざまなものによって内部表現は形成され、その内部表現を使って、私たちは現在の現実を認識しています。
では、その普段は意識することのない内部表現そのものが、意識に上がったとき、何が起こるのでしょう。
今回は、この問題を考えてみたいと思います。
私たちは、いちいち世界を考えながら生きているわけではない
朝、目を覚まします。
時計を見ます。
服を着ます。
家を出ます。
道を歩きます。
人とすれ違います。
信号を見ます。
店へ入ります。
仕事をします。
その一つ一つについて、
「これは何だろう。」
「なぜ私はこうしているのだろう。」
「本当にこれは正しいのだろうか。」
と考えながら生活しているわけではありません。
多くのことは、ほとんど意識することなく処理されています。
これは道だ。
赤信号だから止まる。
これは仕事だ。
この人は知っている人だ。
ここではこう振る舞う。
私たちは、それまでに形成されてきた内部表現を使いながら、膨大な情報を処理しています。
だからこそ、日常生活を送ることができます。
もし、目に入るものすべてについて、その意味を一から考え直さなければならないとしたら、日常生活そのものが成り立たないでしょう。
つまり、
内部表現による無意識の処理は、人間が安定した現実を生きるために必要な仕組みでもあります。
内部表現は、普段は意識されない
ここで重要なことがあります。
私たちは内部表現を使って現実を認識していますが、
その内部表現そのものを見ながら生活しているわけではありません。
例えば、ある人を、
「感じの悪い人だ」
と思っているとします。
普通は、
「私は、これまで形成されてきた内部表現によって、この人物を『感じの悪い人』として認識している」
とは考えません。
ただ、
「あの人は感じが悪い」
と思います。
つまり、自分の認識と現実が、ほとんど一体になっています。
内部表現は、認識の対象になっているのではありません。
現実を認識するために使われています。
だから、普段は意識されないのです。
ところが、その内部表現そのものが意識に上がる
しかし、何らかの出来事をきっかけに、
「なぜ私は、そう思っているのだろう。」
という疑問が生まれることがあります。
先ほどの例なら、
「あの人は感じが悪い」
と思っていた。
ところが、何かをきっかけに、
「なぜ私は、あの人を感じが悪いと思っているのだろう。」
と考える。
ここで大きな変化が起こっています。
それまで意識が向いていたのは、
「あの人」
でした。
ところが今度は、
「あの人を感じが悪いと思っている自分」
へ意識が向いています。
それまで現実を認識するために使っていた内部表現そのものが、意識の対象になったのです。
無意識に処理されていたものが、顕在意識による検討の対象になる
内部表現が意識に上がるということは、
それまで無意識に処理されていたものが、
顕在意識による検討の対象になる
ということでもあります。
なぜ私はそう思うのだろう。
いつからそう思っていたのだろう。
何か経験があったのだろうか。
誰かから教えられたのだろうか。
本当にそうなのだろうか。
それまで自動的に使われていた内部表現に対して、意識による検討が始まります。
言い換えれば、
自分自身から一歩退き、それまで自分がはまり込んでいた現実と、その現実を認識している自分を見る
ような状態です。
もちろん、完全に自分の外側へ出られるわけではありません。
人間は、自分の認識そのものから完全に離れることはできません。
それでも、
「私は、こう認識している」
ということ自体を意識の対象にすることはできます。
「これが現実だ」から「私はこれを現実として認識している」へ
ここで起こる変化を、非常に単純な言葉にしてみます。
それまでは、
「これが現実だ。」
でした。
ところが内部表現が意識に上がると、
「私は、これを現実として認識している。」
へ変わる可能性があります。
わずかな違いに見えます。
しかし、この二つには大きな違いがあります。
「これが現実だ」
という状態では、そこに疑問を差し込む余地はほとんどありません。
しかし、
「私は、これを現実として認識している」
となれば、
「なぜ私は、そのように認識しているのだろう。」
という問いが生まれます。
そして、その問いから、
自分自身の経験、
親から教えられたこと、
教育、
社会、
文化、
時代、
それまで形成されてきた内部表現へと遡ることができます。
世界と自分は、本当に切り離されていたのだろうか
私たちは普段、
自分とは関係なく、世界がそこに存在しているように感じています。
そして、その世界を自分が見ている。
しかし、ここまで考えてきたことを前提とするならば、
少なくとも、
自分が経験している現実のあり方は、自分の内部表現と無関係ではありません。
同じ街を歩いていても、内部表現が違えば意識に上がるものが違う。
同じ出来事でも、内部表現が違えば意味が違う。
内部表現が変われば、それまで見えなかったものが見えることもある。
だとすれば、
自分とは無関係に存在すると考えていた「自分が経験している現実」が、実は自分自身の内部表現と連動しているのではないか。
そんなことに気づく可能性が出てきます。
ここで、
それまで確固としていた現実に、わずかな揺らぎが生まれます。
しかし、「本当の現実」が見えるわけではない
ここで、一つ重要なことがあります。
内部表現が意識に上がったからといって、
内部表現を取り外し、
その向こう側にある「本当の現実」を直接見ることができるわけではありません。
人間は、自分の感覚や認識を通してしか世界を経験することができません。
内部表現が変われば、新しい内部表現によって世界を認識することになります。
つまり、
内部表現を通して認識した現実と、内部表現を完全に取り除いた現実を並べて比較することはできません。
私たちが経験できるのは、
そのとき自分が持っている内部表現を通して構築された現実です。
だから、その人にとっては、
それが単なる仮の世界なのではありません。
それこそが、その人が実際に生きている現実です。
では、何が揺らぐのか
外界そのものが揺らぐわけではありません。
道路が消えるわけでも、
建物が突然別のものになるわけでもありません。
また、
「今までの現実は偽物だった」
と分かるわけでもありません。
揺らぐのは、
「自分が認識している現実こそが、唯一そのままの現実である」
という自明性です。
それまで、
「世界とはこういうものだ」
と思っていた。
しかし、
「私は、自分の内部表現によって世界をこのように認識しているのではないか」
という可能性に気づく。
すると、
内部表現が異なれば、同じ世界が別の現実として認識される可能性
も見えてきます。
これが、
現実が揺らぐ
ということなのではないでしょうか。
現実が壊れるのではない
現実が揺らぐというと、何か不安定な状態になるように聞こえるかもしれません。
しかし、必ずしもそういう意味ではありません。
それまで唯一だと思っていた現実に、
別の見方が存在する可能性が生まれる。
ということです。
「あの人は感じが悪い」
という現実しかなかったところに、
「私は、なぜそう感じているのだろう」
という問いが生まれる。
「これが普通だ」
という現実しかなかったところに、
「なぜ私は、これを普通だと思っているのだろう」
という問いが生まれる。
「こう生きるべきだ」
と思っていたところに、
「なぜ私は、そう生きなければならないと思っているのだろう」
という問いが生まれる。
世界が壊れたのではありません。
世界について問い直す余地が生まれたのです。
内部表現を意識するということ
ここまで考えてくると、
内部表現を意識に上げるということの意味が見えてきます。
それは、
自分が現実だと思っているものから一歩退き、その現実を認識している自分自身を見ること
です。
そして、
「なぜ私は、この世界をこのように認識しているのだろう。」
と問い始めることです。
その瞬間、
それまで無意識に使われていた内部表現が、顕在意識による検討の対象になります。
しかし、ここでまだ内部表現が変わったわけではありません。
現実を書き換えたわけでもありません。
ただ、
それまで現実そのものとして使われていた内部表現が、初めて「見ることのできるもの」になった。
ここに大きな意味があります。
なぜなら、
意識することのできなかったものについて、私たちは意識的に検討することができないからです。
まず、気づかなければならない。
自分が世界をどのように見ているのか。
なぜ、そのように見ているのか。
その内部表現は、どこから来たのか。
ここで初めて、
自分が生きている現実そのものを問い直すことが可能になります。
しかし、ここで新しい疑問が生まれます。
内部表現が意識に上がった。
それまで確定していた現実に、別の可能性が生まれた。
では――
一度意識に上がった内部表現を、人間は自ら書き換えることができるのでしょうか。
そしてもし、
内部表現を書き換えることができるとしたら、その人が生きている現実には何が起こるのでしょう。
