芸術論講義室
2026-08-26 08:36:00
内部表現は、どのように書き換わるのか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第16回 内部表現は、どのように書き換わるのか
前回、私たちは、
なぜ、内部表現は簡単には変わらないのか
について考えました。
そこで一つの重要なところまでたどり着きました。
私たちが経験している現実は、内部表現とは別に存在し、それを後から内部表現によって判断しているわけではありません。
何を見るのか。
何を重要だと認識するのか。
出来事にどのような意味を与えるのか。
何を好み、何を嫌い、何を恐れるのか。
それらに内部表現が関わることによって、
その人が経験する現実そのものが成立しています。
その意味において、
現実とは、内部表現の写し鏡である。
これが、今回の考察の前提になります。
内部表現を疑うことからは始まらない
では、内部表現はどのようにして変わるのでしょう。
まず重要なのは、
人は通常、自分の内部表現を疑わない
ということです。
これは当然です。
内部表現は、その人にとって単なる「考え方」ではありません。
その内部表現によって成立しているものこそが、その人が実際に経験している現実だからです。
例えば、
「あの人は嫌な奴だ」
という内部表現が強固に形成されているとします。
本人は、
「私は、あの人を嫌な奴だと解釈している」
などとは考えていません。
本人の現実には、
「嫌な奴がいる。」
それだけです。
その人と話せば、
「嫌な奴と話した。」
会話が無事に終われば、
「何とかやり過ごせた。」
そして、
「もう二度と話したくない。」
となるかもしれません。
そこには何の矛盾もありません。
内部表現の写し鏡として、その人の現実が成立しているからです。
したがって、
内部表現を疑ったから現実が揺らぐ
という順序ではありません。
そもそも現実が問題なく成立している間、内部表現を疑う理由がないのです。
まず、現実に亀裂が入る
では、何が起これば内部表現を疑うのでしょう。
それまでの内部表現では処理することのできないほどの経験が起きたとします。
例えば、
ずっと嫌な奴だと思っていた人物が、
自分を守るために、自分自身の人生や生命に重大な危険が及ぶことを承知のうえで、身を挺して自分を守った。
それほど強烈な出来事が起きたとします。
これは、
「今日は少し親切だった」
という程度の出来事ではありません。
それまでの内部表現の中へ簡単に取り込むことのできない経験です。
そのとき、
それまで何の矛盾もなく成立していた現実に、
初めて亀裂が入ります。
「あの人は嫌な奴だ。」
という、それまで疑う必要すらなかった現実が、そのままでは維持できなくなる。
ここで初めて、
「では、自分がこれまで現実だと思っていたものは何だったのだろう。」
という問題が生じます。
現実が崩れることで、内部表現が見えてくる
ここで順序を整理してみます。
それまでの内部表現では処理できない経験が起こる。
その結果、
現実に亀裂が入る。
さらに、それまでの現実を維持することができなくなる。
そこで初めて、
その現実を成立させていた内部表現そのものが、顕在意識による検討の対象になります。
つまり、
内部表現を疑うとは、自分の現実を疑うことです。
そして、
現実を疑うとは、自分の内部表現を疑うことです。
普段、この二つは分離していません。
内部表現が、その人の現実そのものとして機能しているからです。
現実に亀裂が入って初めて、
それまで現実と一体になっていた内部表現そのものが、意識の前に姿を現します。
しかし、疑っただけでは内部表現は変わらない
ここで注意しなければなりません。
自分の内部表現を疑うことができたからといって、
その瞬間に内部表現が書き換わるとは限りません。
頭では、
「私は、この人を間違って見ていたのかもしれない。」
と思うことができる。
しかし、次にその人物を見た瞬間、
やはり嫌悪感が生じるかもしれません。
身体が緊張するかもしれない。
避けたいと思うかもしれない。
なぜでしょう。
ここで、
感情
という問題が出てきます。
人間は、言葉より先に世界を経験していた
人間は、生まれた瞬間から言語を持っているわけではありません。
言葉によって世界を説明することも、
論理によって物事を検討することもできない時期があります。
しかし、その時期にも世界を経験しています。
怖い。
嫌だ。
安心する。
近づきたい。
逃げたい。
まだ、
「これは危険なものである。」
「これは自分にとって好ましいものである。」
という文章は存在していません。
それでも、
世界はすでに無色透明ではありません。
自分にとって、
近づくもの。
避けるもの。
安心するもの。
恐れるもの。
そうした違いが存在しています。
つまり、
人間は、言葉によって世界を説明するよりも前から、感情によって世界を色分けしていた
と考えることができます。
感情は、内部表現に後から付け加えられたものなのだろうか
ここで一つの可能性が見えてきます。
これまで、
「内部表現には感情が結びついている」
と考えてきました。
しかし、もっと根本的には、
感情は、すでに出来上がった内部表現に後から付け加えられたものではない
のかもしれません。
むしろ、
内部表現が形成されるその過程そのものに、感情が深く関わっていた
可能性があります。
言葉を持たない段階から、
何かを経験する。
怖い。
安心する。
嫌だ。
近づきたい。
そうした感情による価値づけが行われる。
その経験が積み重なり、
少しずつ世界についての内部表現が形成されていく。
そして内部表現が形成されれば、
今度はその内部表現によって、
何が重要なのか、
何を認識するのか、
どう感じるのかが決まっていく。
そう考えると、
内部表現と感情は、簡単に切り離すことのできない関係にあることが見えてきます。
論理は、後からやって来た
人間は成長すると、言葉を獲得します。
そして、
自分が経験している世界を言葉によって説明できるようになります。
「あの人は嫌いだ。」
「なぜなら、こういう人だからだ。」
そこには論理があります。
しかし、
その論理によって最初から内部表現が作られたとは限りません。
すでに感情によって色づけされている現実があり、
後から言葉によって、
「なぜ自分はそう感じるのか」
を説明している場合もあるでしょう。
だとすれば、
論理によって、
「あなたの認識は間違っています。」
「その人は悪い人ではありません。」
と説明されたとしても、
内部表現が簡単には変わらないことも理解できます。
そもそも、
論理によって作られたわけではない内部表現を、論理だけによって書き換えようとしている
可能性があるからです。
強烈な感情は、内部表現を書き換えることがあるのではないか
ここで、先ほどの例へ戻ります。
嫌な奴だと思っていた人物が、
自分の人生や生命を危険にさらしてまで、
自分を守った。
そのとき経験するのは、単なる新しい情報ではありません。
生命の危険。
恐怖。
絶望。
そして助けられた瞬間の安堵。
驚き。
戸惑い。
感謝。
それまでその人物に対して抱いていた感情とは、まったく異なる強烈な感情が生じる可能性があります。
その瞬間、
人間は本当に、
「これまでの情報を整理し、論理的に検討した結果、この人物についての評価を変更しよう」
などと考えるのでしょうか。
そうではない場合があるでしょう。
一瞬にして、その人の見え方そのものが変わる。
それまで「嫌な奴」として存在していた人物が、
同じ顔をして、
同じ声で、
同じ場所に立っている。
それなのに、
以前と同じ人物には見えない。
内部表現が変われば、現実が変わる
外界にいる人物そのものが変わったわけではありません。
変化したのは、
その人物についての内部表現です。
そして、
現実が内部表現の写し鏡であるならば、内部表現が変わった瞬間、その人が経験する現実も変わります。
昨日まで、
「嫌な奴」が存在していた。
ところが今、
同じ人物を見ても、
昨日までと同じ「嫌な奴」は、もうそこにはいない。
物理的な世界が変わったのではありません。
しかし、
その人が生きている現実は、確かに変わっています。
ここで起きているのは、
単なる知識の訂正ではありません。
単なる考え方の変更でもありません。
内部表現そのものの書き換えであり、その写し鏡としての現実の書き換えです。
感情が現実を書き換える
ここまでの考察から、一つの可能性が見えてきます。
人間は、
言語を獲得する以前から、
そして高度な論理的思考を行うようになる以前から、
感情によって世界に意味を与えてきたのかもしれません。
何を恐れるのか。
何を避けるのか。
何に安心するのか。
何へ近づくのか。
感情による価値づけが、
内部表現の形成そのものに関わってきた可能性があります。
だとすれば、
強烈な感情を伴う経験が、内部表現を一瞬にして大きく書き換えることがある
としても、不思議ではありません。
そこには、
必ずしも言葉による説明も、
論理的な検討も、
必要ではないのかもしれません。
世界が変わって見えたあとで、
人間は初めて、
「なぜ、自分には世界が違って見えるのだろう。」
と考えるのかもしれません。
内部表現の書き換えは、現実の書き換えである
ここまでを整理してみます。
人間が経験する現実は、
内部表現の写し鏡として立ち現れる。
そのため通常、
自分の内部表現を疑う理由はありません。
しかし、
既存の内部表現では処理できないほど強烈な経験が起こることがあります。
そのとき、
現実に亀裂が入る。
それまでの現実が崩れる。
そこで初めて、
その現実を成立させていた内部表現そのものが疑われる。
さらに、
強烈な感情を伴う新しい経験によって、
内部表現そのものが書き換わることがある。
そして、
内部表現が書き換われば、その写し鏡である現実も書き換わる。
つまり、
内部表現の書き換えとは、その人が生きている現実そのものの書き換えでもある。
ということになります。
では、
内部表現が書き換わったとき、
変わるのは、
「今、目の前にある現実」
だけなのでしょうか。
私たちは過去を、記憶として持っています。
しかし、その記憶は、本当に起きた出来事をそのまま保存したものなのでしょうか。
もし、
現在の内部表現を使って過去を思い出しているのだとしたら。
そして、
その内部表現そのものが変わってしまったとしたら。
同じ過去は、以前と同じ過去として思い出されるのでしょうか。
次回は、
内部表現が変わったとき、過去の現実には何が起こるのか。
そこから考えてみたいと思います。
