芸術論講義室
2026-08-15 13:57:00
「見る前の自分」に戻ることはできるのだろうか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第8回 「見る前の自分」に戻ることはできるのだろうか
はじめに
前回、サルバドール・ダリの《奴隷市場、消えゆくヴォルテールの胸像》を通して、同じ視覚情報から異なる複数の意味が成立することを見てきました。
二人の女性が見える。
しかし、見方が変わると、そこにヴォルテールの胸像が現れる。
絵そのものは何も変わっていません。
色も、
形も、
配置も、
そこに存在する視覚情報も、
何一つ変わっていません。
変わったのは、
私たちの認識です。
(サルバドール・ダリ美術館の教育資料より)
しかし、ここにはもう一つ重要な問題があります。
一度ヴォルテールが見えるようになったあと、
私たちは本当に、
ヴォルテールが見えなかった頃と同じように、この絵を見ることができるのでしょうか。
もう一度、ルビンの壺を見てみる
ここで、第3回で紹介した「ルビンの壺」をもう一度見てみましょう。
何が見えるでしょうか。
白い壺でしょうか。
それとも、
向かい合った二人の横顔でしょうか。
この図を初めて見たときとは、少し違うかもしれません。
なぜなら、読者はすでに、
この図には「壺」と「二人の横顔」が存在することを知っているからです。
第3回より前の読者は、まだそれを知りませんでした。
しかし、今は知っています。
図は同じです。
しかし、
それを見る人間は、もう同じではありません。
二つあるのに、二つを同時には見られない
ルビンの壺には、
「壺」として成立する視覚情報と、
「二人の横顔」として成立する視覚情報があります。
どちらかが、あとから描き加えられるわけではありません。
最初から、同じ図の中にあります。
しかし、ここで不思議なことが起こります。
壺を認識しているとき、
向かい合う二人の顔は背景へ退きます。
反対に、
二人の顔を認識した瞬間、
今度は壺が背景へ退きます。
つまり、
同じ視覚情報の中に二つの意味が成立しているにもかかわらず、私たちはその二つを同時に一つの「図」として安定して認識することができません。
一方が現れると、
もう一方が消える。
しかし、本当に消えたのでしょうか。
もちろん違います。
視覚情報そのものは、そこにあります。
目にも入っています。
しかし、
「それ」として認識されなくなる。
消えたのは情報ではありません。
認識されたものとしての存在です。
見えるものが増えただけではない
ここで、前回のダリへ戻ります。
二人の女性しか見えていなかったところに、
ヴォルテールが見えるようになった。
一見すると、
新しいものが一つ増えた
ように思えます。
しかし、実際にはそれだけではありません。
ヴォルテールを認識した瞬間、
それまで「二人の女性」として認識されていた形の一部が、
ヴォルテールの目や頬や鼻を構成する要素として働き始めます。
同じ形です。
何一つ変わっていません。
しかし、
全体として何を認識するかによって、部分の意味まで変わります。
そして、ヴォルテールが強く現れれば、
それまで見えていた二人の女性の存在は弱くなる。
女性へ認識を切り替えれば、
今度はヴォルテールが崩れていく。
つまり、
新しいものが見えるということは、単純に「見えるものが一つ増える」ということではないのです。
あるものが見えることによって、
それまで見えていたものが、見えなくなることさえあります。
認識とは、すべてを見ることではない
これは非常に重要なことです。
私たちは、
「目の前にあるものを見ている」
と思っています。
しかし、ルビンの壺では、
壺も、
二人の顔も、
最初からそこにあります。
それにもかかわらず、
認識されるものは切り替わります。
つまり、
見るという行為は、そこに存在する視覚情報をすべて同じように意識することではありません。
視覚情報そのものが消えるわけではありません。
そこにある。
目にも入っている。
しかし、
「それ」として認識されなくなる。
何かを「これだ」と認識した瞬間、
その認識によって、
別のものが背景へ退くことがあります。
つまり、
何かが見えるということは、同時に何かが見えなくなることでもある。
この関係が、一枚の図の中ですでに起きています。
では、一度知ってしまったらどうなるのだろう
そして、ここから今回のもう一つの問題が始まります。
最初にルビンの壺を見たとき、
壺しか見えなかった人がいたとします。
そこで、
「左右に二人の横顔があります」
と教えられる。
探してみる。
そして、
見えた。
その瞬間、その人の中には、
それまで存在していなかった新しい情報が生まれます。
この形は、
「二人の横顔として見ることもできる」
という情報です。
第2部で扱った言葉を使えば、
ここで、内部表現が書き換えられたのです。
作品は変わっていない。しかし、見る人間が変わった
ここが重要です。
図そのものには、何も起こっていません。
線は一本も増えていません。
色も変わっていません。
形も変わっていません。
変わったのは、
見る側です。
新しい意味を知る前には存在しなかった内部表現を、今の自分は持っています。
だから、同じ図をもう一度見ても、
以前とまったく同じ条件では見ることができません。
もちろん、壺を見ることもできます。
顔を見ることもできます。
認識を切り替えることもできます。
しかし、
「この図には二人の横顔も存在する」ということを知らなかった自分として見ることは、もうできません。
第3回のあなたと、今のあなた
ここで、もう一度この図を見てください。
この図は、第3回で見た図と同じです。
しかし、
第3回で初めてこの図を見たときのあなたと、
第8回まで読み進めた今のあなたは、
同じでしょうか。
図は変わっていません。
あなたの内部にある情報が変わっています。
第3回でこの図を見たという経験も、
ダリの二重像を見たという経験も、
ここまで本書を読み進めてきたという経験も、
すでにあなたの内部表現の一部になっています。
つまり、
この文章を読む前のあなたと、今この文章を読んでいるあなたは、まったく同じ内部表現を持つ人間ではありません。
ここで、これまで説明してきたことを、
読者自身が体験することになります。
「見る前の自分」に戻ることはできるのだろうか
私たちは、新しいものを見るたび、
新しいことを知るたび、
内部表現を変化させています。
そして、その内部表現を使って、
次の世界を認識します。
ならば、
新しい意味を知るということは、
単に知識が一つ増えるということなのでしょうか。
それとも、
それ以降の「見る」という行為そのものを変えてしまうことなのでしょうか。
一度見えてしまったものを、
「知らなかったこと」にすることはできません。
一度書き換えられた内部表現を持ったまま、
私たちは次のものを見ます。
作品は変わっていません。
しかし、
それを見る人間は変わりました。
そして、
見る人間が変われば、
同じ視覚情報から構築される現実も変わります。
では――
その変化は、本当に一枚の絵の中だけで終わるのでしょうか。
2026-08-14 08:32:00
同じ絵から、異なる意味を見ることはできるのだろうか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第7回 同じ絵から、異なる意味を見ることはできるのだろうか
はじめに
前回、ジュゼッペ・アルチンボルドの「複合肖像」を通して、画面に描かれた個々の情報を統合することで、そこには直接描かれていない別の意味が生まれることを見てきました。
果物は果物として見えています。
野菜は野菜として見えています。
花は花として見えています。
しかし、それらを全体として捉えた瞬間、
「人間の顔」
という、個々の物体には存在していなかった別の意味が現れます。
では、さらに一歩進んでみます。
もし、同じ一つの視覚情報から、
まったく異なる複数の意味を成立させることができるとしたら、どうでしょうか。
今回取り上げるのは、サルバドール・ダリの「二重像」です。
ダリの「二重像」
サルバドール・ダリは、見る者の知覚や認識を揺さぶるような作品を数多く制作しました。
その中でも今回注目したいのが、一つの視覚情報から複数の像を成立させる「二重像」です。
その代表的な作品の一つに、1940年に制作された《奴隷市場、消えゆくヴォルテールの胸像》があります。
作品の中には、多くの人物や建物、物体などが描かれています。
そして画面中央付近を見ると、そこには二人の人物がいます。
まずは、その二人を人物として見てみます。
二人の人物が並んでいる。
それだけです。
ところが、少し視点を変え、画面全体の関係として捉えてみると、突然まったく別のものが現れます。
ヴォルテールの胸像です。
先ほどまで二人の人物として見えていた形が、今度はヴォルテールの顔を構成する一部として見えてきます。
(サルバドール・ダリ美術館の教育資料より)
絵は何も変わっていない
ここで重要なことがあります。
絵そのものは、何も変わっていません。
二人の人物を見ていたときも、
ヴォルテールの胸像を見ているときも、
キャンバスの上に置かれた絵具は同じです。
色も変わっていません。
形も変わっていません。
位置も変わっていません。
明暗も変わっていません。
つまり、
目に入ってくる視覚情報そのものは同じです。
それにもかかわらず、
私たちが見ているものは変わります。
ある瞬間には、
「二人の人物」
だったものが、
次の瞬間には、
「ヴォルテールの顔」
になります。
外部の情報は変わっていない。
しかし、
認識された意味が変わっているのです。
どちらが本当なのだろう
ここで、一つの問いが生まれます。
二人の人物が本当なのでしょうか。
それとも、ヴォルテールの顔が本当なのでしょうか。
しかし、この問いそのものが少し奇妙です。
なぜなら、
どちらも同じ絵の中に成立しているからです。
人物が消えて、ヴォルテールが描き加えられたわけではありません。
ヴォルテールが消えて、人物が描き加えられたわけでもありません。
同じ視覚情報から、
「人物」という意味と、
「ヴォルテール」という意味が成立している。
違っているのは絵ではありません。
私たちの認識です。
意味が変わると、部分の役割まで変わる
さらに面白いことがあります。
最初に二人の人物を見ているとき、その形は、
「人物」
として認識されています。
ところが、ヴォルテールの胸像が見えた瞬間、それまで人物として認識していた同じ形が、
ヴォルテールの顔を構成する要素
として働き始めます。
同じ形です。
同じ色です。
同じ場所にあります。
それなのに、
全体として何を認識するかによって、部分が持つ意味や役割まで変わる。
これは、前回のアルチンボルドでも見られた現象ですが、ダリの二重像では、その切り替わりがより鮮明に体験できます。
一枚の絵の中で、
人物が人物でありながら、
同時に別の顔を構成する要素にもなる。
視覚情報は一つです。
しかし、
そこから成立する意味は一つではありません。
同じものを見ているのに、同じものを見ていない
ここで、第2部で考えてきた認識の問題が再び顔を出します。
私たちは外界そのものを、そのままコピーして経験しているわけではありません。
外部から入ってきた情報をもとに、それを統合し、内部表現と照合しながら、「何を見ているのか」を認識しています。
ダリの二重像では、外部から入ってくる視覚情報は変化していません。
それでも、
認識されるものは変化します。
これは非常に重要です。
私たちは同じ絵を見ています。
しかし、
同じものを見ているとは限らないのです。
「見える」という経験は、どこで生まれているのだろう
ここまでくると、
「絵を見る」
という、ごく当たり前に思える行為そのものが少し不思議に見えてきます。
目の前には、一枚の絵があります。
その絵は変化していません。
それなのに、
ある瞬間には人物が見え、
ある瞬間にはヴォルテールが見える。
では、
私たちが経験している「見えているもの」は、どこで生まれているのでしょうか。
少なくとも、キャンバスの上に存在する物理的な情報だけでは説明できません。
同じ情報から、異なる意味が成立しているからです。
私たちが経験している「見えている世界」は、外部から入ってきた視覚情報そのものではなく、
その情報をもとに、人間の認識によって構築されたものです。
ここで第2部で考えてきたことが、芸術作品の鑑賞という具体的な経験として現れてきます。
一度「見えて」しまったら
そして、ここからもう一つ、興味深い問題が生まれます。
最初にこの作品を見たとき、ヴォルテールの存在に気づかなかったとします。
そこには、人物や建物やさまざまな物体が描かれた一枚の絵がありました。
ところが、
「ここにヴォルテールの顔があります」
と教えられたとします。
そして一度、
ヴォルテールが見えた。
その瞬間、鑑賞者の中には、それまで存在していなかった情報が生まれます。
「この形の組み合わせは、ヴォルテールの顔として見ることができる。」
という情報です。
絵は変わっていません。
しかし、
鑑賞者の内部にある情報は変わりました。
そして、もう一度同じ絵を見ます。
すると、最初に見たときには存在しなかったヴォルテールが、今度は容易に現れるかもしれません。
外部の作品は同じです。
変わったのは、
見る側です。
同じ絵なのに、同じ現実ではない
これは、単に「隠し絵の答えを知った」という話だけではありません。
同じ作品。
同じ色。
同じ形。
同じ視覚情報。
それでも、
鑑賞者の内部にある情報が変化することで、同じ作品から認識されるものが変わる。
ということです。
第2部では、
内部表現が変化すれば、認識される現実も変化する。
という問題について考えてきました。
ダリの二重像は、そのことを一枚の絵の中で体験させます。
作品は何も変わっていない。
それなのに、
昨日まで見えなかったものが、今日は見える。
そして一度見えるようになったものは、次に同じ作品を見たときにも、私たちの認識に影響します。
見る前の自分に戻ることはできるのだろうか
第5回の《大使たち》では、
見えている。しかし、その情報が持つ意味は意識されていない。
という現象を見ました。
第6回のアルチンボルドでは、
見えている情報を統合することで、そこには直接描かれていない別の意味が生まれる。
という現象を見ました。
そして今回、ダリの二重像では、
同じ視覚情報から、異なる複数の意味が成立する。
という現象を見ました。
しかし、ダリの作品は、さらにもう一つの問題を私たちに突きつけます。
新しい意味を知る前と、
知ったあと。
目の前にある作品は、まったく同じです。
しかし、
それを見る私たちは、もう同じではありません。
ならば――
一度新しい意味を知ってしまったあと、私たちは本当に「見る前の自分」に戻ることができるのでしょうか。
2026-08-13 11:10:00
「顔」という意味は、どこから生まれるのだろうか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第6回 「顔」という意味は、どこから生まれるのだろうか
はじめに
前回、ハンス・ホルバインの《大使たち》を通して、視覚情報そのものと、その情報が持つ意味の認識は、必ずしも同じではないことを見てきました。
《大使たち》では、頭蓋骨を構成する視覚情報は最初から目に入っています。
しかし、正面から見ている限り、それを「頭蓋骨」として認識することはできません。
見えている。しかし、その情報が持つ意味は意識されていない。
今回は、これとは反対の方向から、「見ること」と「意味」について考えてみたいと思います。
取り上げるのは、16世紀に活躍した画家ジュゼッペ・アルチンボルドの「複合肖像」です。
果物や野菜からつくられた顔
アルチンボルドは、果物、野菜、花、魚、本など、さまざまな物体を組み合わせ、それらを一人の人間の顔として成立させる独特の作品を数多く制作しました。
代表的な作品の一つが《ウェルトゥムヌス》です。
この作品では、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の肖像が、さまざまな果物、野菜、花などによって構成されています。
近くで細部を見てみます。
リンゴがあります。
ブドウがあります。
梨があります。
花があります。
野菜があります。
それぞれを見れば、私たちはそれが何であるかを認識することができます。
つまり、
視覚情報は見えている。
そして、
個々の情報が何を意味しているのかも認識できている。
ところが、少し離れて作品全体を見ると、まったく別のものが現れます。
人間の顔です。
「顔」はどこに描かれているのだろう
ここで、不思議なことが起こっています。
アルチンボルドは、普通の意味で人間の鼻を描いているわけではありません。
果物や野菜を描いています。
頬を描いているわけでもありません。
そこにも別の物体が描かれています。
髪の毛を一本一本描いているわけでもありません。
花や植物が描かれています。
それにもかかわらず、私たちは作品全体を見た瞬間、
「顔だ」
と認識します。
では、この「顔」は、いったいどこに描かれているのでしょうか。
リンゴだけを見ても、顔ではありません。
梨だけを見ても、顔ではありません。
花だけを見ても、顔ではありません。
どの物体を一つ取り出してみても、そこに「人間の顔」は存在していません。
しかし、それらが特定の位置関係で配置され、一つのまとまりとして見えた瞬間、
個々の物体には存在していなかった「顔」という別の意味が、全体として成立します。
部分の意味と、全体の意味
ここで重要なのは、
部分の意味と、全体の意味は同じではない
ということです。
リンゴはリンゴです。
梨は梨です。
花は花です。
それぞれには、それぞれの意味があります。
しかし、それらが一定の関係を持って配置されると、そのどれにも存在していなかった、
「人間の顔」
という別の意味が現れます。
近くで細部を見ると、果物や野菜が見える。
少し離れて全体を見ると、人間の顔が見える。
視覚情報そのものは変わっていません。
変わっているのは、私たちがその情報をどのまとまりで捉え、何として認識しているのかです。
つまり、一枚の作品の中には、
部分として成立する意味と、全体として成立する意味が、同時に存在することができます。
ここで、第2部の話が生きてくる
ここで、第2部で扱った認識の話が、そのまま生きてきます。
私たちは外界の情報を、そのままコピーして見ているのではありません。
入ってきた情報から特徴を取り出し、統合し、内部表現と照合しながら、「これは何であるか」を認識しています。
アルチンボルドの作品を見ると、このことを非常に分かりやすく体験することができます。
私たちは、果物を果物として認識しています。
花を花として認識しています。
野菜を野菜として認識しています。
しかし、それらを一つのまとまりとして統合した瞬間、
「人間の顔」
という、別の認識が成立します。
つまり、
果物を認識している自分と、人間の顔を認識している自分が、同じ一枚の絵の中で成立するのです。
画面には「顔」という物体は存在しない
ここで、前回の《大使たち》との違いが重要になります。
《大使たち》では、頭蓋骨を構成する視覚情報そのものが、画面の中に存在していました。
ただし、それを「頭蓋骨」として認識することができませんでした。
アルチンボルドの場合は違います。
画面に直接描かれているのは、果物、野菜、花などです。
「顔」という独立した物体が、そのまま描かれているわけではありません。
それにもかかわらず、
私たちは、そこに顔を見ます。
つまり、
画面に存在する視覚情報から、そこには直接描かれていない別の意味を、人間の認識が作り出している。
ということになります。
意味は、部分だけから決まるわけではない
ここまで見てくると、一枚の絵に存在する「意味」というものが、少し違って見えてきます。
意味は、描かれた一つ一つの物体だけによって決まるわけではありません。
それらがどのように配置され、
どのような関係を持ち、
どのようなまとまりとして認識されるのか。
それによって、個々の情報には存在していなかった新しい意味が生まれることがあります。
アルチンボルドの複合肖像では、その現象が非常に明確な形で目の前に現れます。
画面には、
果物がある。
野菜がある。
花がある。
しかし、私たちはそこに、
「人間の顔」
を見るのです。
描かれていないものを見る
前回の《大使たち》では、
見えている。しかし、その情報が持つ意味は意識されていない。
という現象を見ました。
今回のアルチンボルドでは、
その反対方向から、
見えている情報を統合することで、そこには直接描かれていない別の意味が生まれる。
という現象を見ました。
画面そのものに「顔」という独立した物体が存在しているわけではありません。
それでも私たちは、顔を見る。
言い換えれば、
私たちは、描かれているものだけを見ているのではありません。
描かれた情報を統合し、
そこから、
描かれていない「意味」まで作り出して見ているのです。
では、もし同じ一つの視覚情報から、まったく異なる二つの意味を作り出すことができるとしたら――。
「見る」という行為は、さらに不思議なものになってきます。
2026-08-12 11:11:00
見えている情報と、その意味は同じなのだろうか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第5回 見えている情報と、その意味は同じなのだろうか
はじめに
これまで本章では、私たちが一枚の絵を見るとき、目に入っているすべての情報を同じように意識しているわけではないことについて考えてきました。
第3回では、「図と地」や「多義図形」を通して、
見えている。しかし、意識されていない。
という現象を見ました。
第4回では、FedExやTobleroneのロゴを例に、
見えている。しかし、意識されにくい情報を、意図してそこに置くことができる。
という事例を見てきました。
今回は、さらにもう一段進んでみたいと思います。
今回取り上げるのは、ハンス・ホルバインの《大使たち》です。
ハンス・ホルバイン《大使たち》
《大使たち》は、ハンス・ホルバインが1533年に描いた作品です。
画面左にはフランス王フランソワ1世の外交官ジャン・ド・ダントヴィル、右にはその友人であるラヴォール司教ジョルジュ・ド・セルヴが描かれています。二人の間には、天文学、数学、音楽などに関係するさまざまな器具や書物が並べられています。ロンドン・ナショナル・ギャラリーは、これらの品々について、二人の知性や教養を示すと同時に、当時の宗教的・政治的混乱を暗示するものとして解説しています。
一見すると、これは二人の人物の地位、知識、教養を極めて精密に描いた壮麗な肖像画です。
衣服の質感。
毛皮。
楽器。
書物。
地球儀。
天体観測のための器具。
画面のあらゆる場所に、当時の知識や権威を象徴する情報が描き込まれています。
ところが、その画面の中央下部に、どうにも説明のつかない奇妙な形があります。
二人の人物の足元を横切るように、細長く、大きく引き伸ばされた物体が描かれているのです。
正面から作品を見ている限り、それが何なのかは分かりません。
しかし、作品の右側から非常に斜めの角度で見ると、その奇妙な形は突然、
人間の頭蓋骨
として現れます。
このように、特定の角度から見ることで初めて正しい形として認識できるよう、あらかじめ歪めて描く技法を「アナモルフォーシス(歪像)」といいます。《大使たち》の頭蓋骨も、この技法によって描かれています。
頭蓋骨は隠されていない
ここで重要なのは、この頭蓋骨が「隠されている」わけではないということです。
むしろ逆です。
画面のかなり大きな領域を占めています。
しかも、作品の手前、目立つ位置に堂々と描かれています。
小さく描かれているわけでもありません。
物陰に隠されているわけでもありません。
背景と同化しているわけでもありません。
私たちは、それを最初から見ています。
それにもかかわらず、正面から見ている限り、それを「頭蓋骨」として認識することができません。
ここに、今回考えたい重要な問題があります。
見えていることと、意味を認識すること
私たちは普段、
「見えた」
ということと、
「それが何であるか分かった」
ということを、ほとんど同じものとして扱っています。
しかし、《大使たち》を見ると、この二つは明らかに別のものだと分かります。
画面中央下部の奇妙な形は見えています。
その輪郭も見えています。
色も見えています。
大きさも見えています。
位置も見えています。
つまり、視覚情報そのものは、すでに私たちの目に入っています。
ところが、
「これは頭蓋骨である」
という意味だけが認識されません。
ここに、
視覚情報そのものと、その情報が持つ意味の認識は別である
という問題が現れます。
そこにあるのは「ただの形」ではない
さらに重要なのは、この頭蓋骨が単なる図形ではないということです。
西洋美術における頭蓋骨は、古くから「メメント・モリ」の象徴として用いられてきました。
メメント・モリとは、「死を忘れるな」「人は必ず死ぬ」という意味を持つ表現です。
ナショナル・ギャラリーも、《大使たち》の頭蓋骨を、人間の死や、この世の業績の有限性を思い起こさせるものとして位置づけています。
ここで作品全体をもう一度見てみます。
画面には、
地位。
富。
知識。
学問。
科学。
音楽。
宗教。
外交。
当時の人間が築き上げてきた、さまざまな文化や文明の象徴が並んでいます。
その中心に立つ二人の人物も、社会的地位と知性を備えた人物として描かれています。
その一方で、画面の手前には巨大な頭蓋骨が存在しています。
つまり、
人間がどれほど富を持とうと、知識を持とうと、地位を持とうと、最後には死を迎える。
その意味を持つ情報が、作品の中に存在しているのです。
しかし、正面から作品を見ている鑑賞者には、その意味は簡単には認識されません。
意味はそこにある
ここでもう一度確認してみます。
頭蓋骨は、あとから現れるわけではありません。
特定の角度から見たときに、新しい絵が追加されるわけでもありません。
頭蓋骨を構成する情報は、
最初からそこにあります。
つまり、
私たちはその情報をすでに見ています。
ただし、
その情報が「死」を意味する頭蓋骨であることを認識していない。
この違いは非常に重要です。
第3回の「図と地」では、
同じ画面の中に複数の情報があり、その一方が意識から外れることを見ました。
第4回では、
その性質を利用して、意識されにくい情報をデザインの中へ意図的に組み込むことができることを見ました。
そして今回の《大使たち》では、
さらに一段進みます。
情報そのものが見えていても、その情報が持つ意味を認識できない状態をつくることができる。
ということです。
「見えない」のではない
ここは、非常に大切なので言葉を分けておきたいと思います。
《大使たち》の頭蓋骨は、
見えないのではありません。
見えています。
しかし、
意味が見えていない。
のです。
これは、単純な「隠し絵」とはかなり違います。
隠し絵なら、情報そのものを発見することが問題になります。
しかし《大使たち》では、情報は最初から目の前にあります。
問題は、
その情報を、脳が何として認識しているのか。
ということです。
奇妙な形として認識している間、その形は「頭蓋骨」という意味を持ちません。
しかし、見る位置を変えた瞬間、
同じ視覚情報が突然、
「頭蓋骨」
という意味を持ち始めます。
そして、その瞬間、
単なる奇妙な形だったものが、
「死」
という非常に強い意味を帯びることになります。
視覚情報と意味のあいだ
ここに、芸術を考えるうえで非常に興味深い問題があります。
一枚の絵の中には、色や形だけが存在しているわけではありません。
そこには、
人物。
物体。
象徴。
記号。
文化。
記憶。
経験。
さまざまな「意味」が重なっています。
しかし、その意味のすべてが、鑑賞した瞬間に顕在意識へ上がるわけではありません。
《大使たち》の頭蓋骨は、そのことを非常に分かりやすく示しています。
形は見えている。
情報は存在している。
しかし、
意味としては認識されていない。
それでも、その情報そのものは作品の中に存在し続けています。
強い意味を持つ情報を、意味として認識させない
ここまでくると、《大使たち》の事例が、FedExの矢印とは少し違うことも見えてきます。
FedExの矢印には、
前進。
方向。
スピード。
といった意味があります。
Tobleroneのクマにも、ベルンという土地につながる意味があります。
しかし、《大使たち》に組み込まれているのは、
死
です。
これは非常に強い意味を持つ情報です。
それほど強い意味を持つ情報であっても、
形を変えることで、
鑑賞者の目に入れながら、
その意味を顕在意識には上げない状態をつくることができます。
ここが、今回の事例で最も重要なところです。
見えている。しかし、意味は意識されていない
第3回では、
見えている。しかし、意識されていない。
という現象を見ました。
第4回では、
見えている。しかし、意識されにくい情報を、意図してそこに置くことができる。
という事例を見ました。
そして今回は、
見えている。しかし、その情報が持つ意味は意識されていない。
というところまで進みました。
それも、
単なる飾りや図形ではありません。
「死」という、人間にとって極めて強い意味を持つ情報です。
ハンス・ホルバインの《大使たち》は、視覚情報そのものと、その情報が持つ意味の認識が、必ずしも同じではないことを、非常に鮮明な形で示しています。
一枚の絵の中には、
目には入っている。
しかし、意味としてはまだ見えていない。
そのような情報を存在させることができるのです。
そして、この違いは、これから芸術が人間にどのような影響を与えるのかを考えていくうえで、非常に重要な意味を持つことになります。
2026-08-10 08:53:00
意識されない情報をデザインに組み込むことはできるのだろうか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第4回 意識されない情報をデザインに組み込むことはできるのだろうか
はじめに
前回、「図と地」や「多義図形」の事例から、私たちの目に入っている情報のすべてが、同じように意識されているわけではないことを見てきました。
では、この人間の認識の性質を、意図的にデザインへ利用することはできるのでしょうか。
その分かりやすい例の一つが、FedExのロゴです。
FedExのロゴを普通に見ると、まず「FedEx」という文字が目に入ります。
しかし、「E」と「x」の間をよく見てみると、そこには右向きの矢印が現れます。
この矢印は、線で直接描かれているわけではありません。
「E」と「x」の間に生まれる余白、いわゆるネガティブスペースによって形作られています。
そのため、矢印の存在を知らずにロゴを見ていると、それに気づかないことがあります。
しかし、一度その存在を知ってしまうと、今度ははっきりと矢印が見えてきます。
ここで重要なのは、
矢印は、最初からそこにあった
ということです。
あとから描き加えられたわけではありません。
私たちの目にも入っていました。
それでも、意識して認識していなかったのです。
これは、前回取り上げた「図と地」の関係ともよく似ています。
文字を「図」として認識しているとき、その間にある余白は「地」として扱われます。
しかし、その余白そのものに意味を持たせることで、もう一つの情報をデザインの中へ組み込むことができます。
FedExの矢印は、前進、方向、スピードといったイメージを連想させます。
つまり、意識して矢印を探していない鑑賞者に対しても、「FedEx」という文字とは別の意味を持った視覚情報が、同じロゴの中に存在していることになります。
このようなデザインは、FedExだけではありません。
例えば、Tobleroneの旧ロゴでは、山のシルエットの中にクマの姿が組み込まれていました。
クマは、Toblerone発祥の地であるスイス・ベルンを象徴する存在です。
最初に目に入るのは山です。
しかし、よく見ると、その中に別の意味を持った情報が存在していることに気づきます。
ここまで見てくると、前回取り上げた「図と地」や「多義図形」が、単なる錯視の面白い事例ではないことが分かります。
人間は、目に入ったすべての情報を同じように意識しているわけではありません。
そして、その性質を利用すれば、
意図された意味を持つ情報を、意識されにくい形でデザインの中へ組み込むことができます。
前回は、
見えている。しかし、意識されていない。
という現象を見ました。
今回は、そこから一歩進んで、
見えている。しかし、意識されにくい情報を、意図してそこに置くことができる。
という事例を見てきました。
同じ画面の中に、意識して認識される情報と、意識されにくい情報を同時に存在させる。
それもまた、デザインによって可能になる表現の一つなのです。









