芸術論講義室
2026-08-13 11:10:00
「顔」という意味は、どこから生まれるのだろうか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第6回 「顔」という意味は、どこから生まれるのだろうか
はじめに
前回、ハンス・ホルバインの《大使たち》を通して、視覚情報そのものと、その情報が持つ意味の認識は、必ずしも同じではないことを見てきました。
《大使たち》では、頭蓋骨を構成する視覚情報は最初から目に入っています。
しかし、正面から見ている限り、それを「頭蓋骨」として認識することはできません。
見えている。しかし、その情報が持つ意味は意識されていない。
今回は、これとは反対の方向から、「見ること」と「意味」について考えてみたいと思います。
取り上げるのは、16世紀に活躍した画家ジュゼッペ・アルチンボルドの「複合肖像」です。
果物や野菜からつくられた顔
アルチンボルドは、果物、野菜、花、魚、本など、さまざまな物体を組み合わせ、それらを一人の人間の顔として成立させる独特の作品を数多く制作しました。
代表的な作品の一つが《ウェルトゥムヌス》です。
この作品では、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の肖像が、さまざまな果物、野菜、花などによって構成されています。
近くで細部を見てみます。
リンゴがあります。
ブドウがあります。
梨があります。
花があります。
野菜があります。
それぞれを見れば、私たちはそれが何であるかを認識することができます。
つまり、
視覚情報は見えている。
そして、
個々の情報が何を意味しているのかも認識できている。
ところが、少し離れて作品全体を見ると、まったく別のものが現れます。
人間の顔です。
「顔」はどこに描かれているのだろう
ここで、不思議なことが起こっています。
アルチンボルドは、普通の意味で人間の鼻を描いているわけではありません。
果物や野菜を描いています。
頬を描いているわけでもありません。
そこにも別の物体が描かれています。
髪の毛を一本一本描いているわけでもありません。
花や植物が描かれています。
それにもかかわらず、私たちは作品全体を見た瞬間、
「顔だ」
と認識します。
では、この「顔」は、いったいどこに描かれているのでしょうか。
リンゴだけを見ても、顔ではありません。
梨だけを見ても、顔ではありません。
花だけを見ても、顔ではありません。
どの物体を一つ取り出してみても、そこに「人間の顔」は存在していません。
しかし、それらが特定の位置関係で配置され、一つのまとまりとして見えた瞬間、
個々の物体には存在していなかった「顔」という別の意味が、全体として成立します。
部分の意味と、全体の意味
ここで重要なのは、
部分の意味と、全体の意味は同じではない
ということです。
リンゴはリンゴです。
梨は梨です。
花は花です。
それぞれには、それぞれの意味があります。
しかし、それらが一定の関係を持って配置されると、そのどれにも存在していなかった、
「人間の顔」
という別の意味が現れます。
近くで細部を見ると、果物や野菜が見える。
少し離れて全体を見ると、人間の顔が見える。
視覚情報そのものは変わっていません。
変わっているのは、私たちがその情報をどのまとまりで捉え、何として認識しているのかです。
つまり、一枚の作品の中には、
部分として成立する意味と、全体として成立する意味が、同時に存在することができます。
ここで、第2部の話が生きてくる
ここで、第2部で扱った認識の話が、そのまま生きてきます。
私たちは外界の情報を、そのままコピーして見ているのではありません。
入ってきた情報から特徴を取り出し、統合し、内部表現と照合しながら、「これは何であるか」を認識しています。
アルチンボルドの作品を見ると、このことを非常に分かりやすく体験することができます。
私たちは、果物を果物として認識しています。
花を花として認識しています。
野菜を野菜として認識しています。
しかし、それらを一つのまとまりとして統合した瞬間、
「人間の顔」
という、別の認識が成立します。
つまり、
果物を認識している自分と、人間の顔を認識している自分が、同じ一枚の絵の中で成立するのです。
画面には「顔」という物体は存在しない
ここで、前回の《大使たち》との違いが重要になります。
《大使たち》では、頭蓋骨を構成する視覚情報そのものが、画面の中に存在していました。
ただし、それを「頭蓋骨」として認識することができませんでした。
アルチンボルドの場合は違います。
画面に直接描かれているのは、果物、野菜、花などです。
「顔」という独立した物体が、そのまま描かれているわけではありません。
それにもかかわらず、
私たちは、そこに顔を見ます。
つまり、
画面に存在する視覚情報から、そこには直接描かれていない別の意味を、人間の認識が作り出している。
ということになります。
意味は、部分だけから決まるわけではない
ここまで見てくると、一枚の絵に存在する「意味」というものが、少し違って見えてきます。
意味は、描かれた一つ一つの物体だけによって決まるわけではありません。
それらがどのように配置され、
どのような関係を持ち、
どのようなまとまりとして認識されるのか。
それによって、個々の情報には存在していなかった新しい意味が生まれることがあります。
アルチンボルドの複合肖像では、その現象が非常に明確な形で目の前に現れます。
画面には、
果物がある。
野菜がある。
花がある。
しかし、私たちはそこに、
「人間の顔」
を見るのです。
描かれていないものを見る
前回の《大使たち》では、
見えている。しかし、その情報が持つ意味は意識されていない。
という現象を見ました。
今回のアルチンボルドでは、
その反対方向から、
見えている情報を統合することで、そこには直接描かれていない別の意味が生まれる。
という現象を見ました。
画面そのものに「顔」という独立した物体が存在しているわけではありません。
それでも私たちは、顔を見る。
言い換えれば、
私たちは、描かれているものだけを見ているのではありません。
描かれた情報を統合し、
そこから、
描かれていない「意味」まで作り出して見ているのです。
では、もし同じ一つの視覚情報から、まったく異なる二つの意味を作り出すことができるとしたら――。
「見る」という行為は、さらに不思議なものになってきます。


