芸術論講義室
2026-08-15 13:57:00
「見る前の自分」に戻ることはできるのだろうか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第8回 「見る前の自分」に戻ることはできるのだろうか
はじめに
前回、サルバドール・ダリの《奴隷市場、消えゆくヴォルテールの胸像》を通して、同じ視覚情報から異なる複数の意味が成立することを見てきました。
二人の女性が見える。
しかし、見方が変わると、そこにヴォルテールの胸像が現れる。
絵そのものは何も変わっていません。
色も、
形も、
配置も、
そこに存在する視覚情報も、
何一つ変わっていません。
変わったのは、
私たちの認識です。
(サルバドール・ダリ美術館の教育資料より)
しかし、ここにはもう一つ重要な問題があります。
一度ヴォルテールが見えるようになったあと、
私たちは本当に、
ヴォルテールが見えなかった頃と同じように、この絵を見ることができるのでしょうか。
もう一度、ルビンの壺を見てみる
ここで、第3回で紹介した「ルビンの壺」をもう一度見てみましょう。
何が見えるでしょうか。
白い壺でしょうか。
それとも、
向かい合った二人の横顔でしょうか。
この図を初めて見たときとは、少し違うかもしれません。
なぜなら、読者はすでに、
この図には「壺」と「二人の横顔」が存在することを知っているからです。
第3回より前の読者は、まだそれを知りませんでした。
しかし、今は知っています。
図は同じです。
しかし、
それを見る人間は、もう同じではありません。
二つあるのに、二つを同時には見られない
ルビンの壺には、
「壺」として成立する視覚情報と、
「二人の横顔」として成立する視覚情報があります。
どちらかが、あとから描き加えられるわけではありません。
最初から、同じ図の中にあります。
しかし、ここで不思議なことが起こります。
壺を認識しているとき、
向かい合う二人の顔は背景へ退きます。
反対に、
二人の顔を認識した瞬間、
今度は壺が背景へ退きます。
つまり、
同じ視覚情報の中に二つの意味が成立しているにもかかわらず、私たちはその二つを同時に一つの「図」として安定して認識することができません。
一方が現れると、
もう一方が消える。
しかし、本当に消えたのでしょうか。
もちろん違います。
視覚情報そのものは、そこにあります。
目にも入っています。
しかし、
「それ」として認識されなくなる。
消えたのは情報ではありません。
認識されたものとしての存在です。
見えるものが増えただけではない
ここで、前回のダリへ戻ります。
二人の女性しか見えていなかったところに、
ヴォルテールが見えるようになった。
一見すると、
新しいものが一つ増えた
ように思えます。
しかし、実際にはそれだけではありません。
ヴォルテールを認識した瞬間、
それまで「二人の女性」として認識されていた形の一部が、
ヴォルテールの目や頬や鼻を構成する要素として働き始めます。
同じ形です。
何一つ変わっていません。
しかし、
全体として何を認識するかによって、部分の意味まで変わります。
そして、ヴォルテールが強く現れれば、
それまで見えていた二人の女性の存在は弱くなる。
女性へ認識を切り替えれば、
今度はヴォルテールが崩れていく。
つまり、
新しいものが見えるということは、単純に「見えるものが一つ増える」ということではないのです。
あるものが見えることによって、
それまで見えていたものが、見えなくなることさえあります。
認識とは、すべてを見ることではない
これは非常に重要なことです。
私たちは、
「目の前にあるものを見ている」
と思っています。
しかし、ルビンの壺では、
壺も、
二人の顔も、
最初からそこにあります。
それにもかかわらず、
認識されるものは切り替わります。
つまり、
見るという行為は、そこに存在する視覚情報をすべて同じように意識することではありません。
視覚情報そのものが消えるわけではありません。
そこにある。
目にも入っている。
しかし、
「それ」として認識されなくなる。
何かを「これだ」と認識した瞬間、
その認識によって、
別のものが背景へ退くことがあります。
つまり、
何かが見えるということは、同時に何かが見えなくなることでもある。
この関係が、一枚の図の中ですでに起きています。
では、一度知ってしまったらどうなるのだろう
そして、ここから今回のもう一つの問題が始まります。
最初にルビンの壺を見たとき、
壺しか見えなかった人がいたとします。
そこで、
「左右に二人の横顔があります」
と教えられる。
探してみる。
そして、
見えた。
その瞬間、その人の中には、
それまで存在していなかった新しい情報が生まれます。
この形は、
「二人の横顔として見ることもできる」
という情報です。
第2部で扱った言葉を使えば、
ここで、内部表現が書き換えられたのです。
作品は変わっていない。しかし、見る人間が変わった
ここが重要です。
図そのものには、何も起こっていません。
線は一本も増えていません。
色も変わっていません。
形も変わっていません。
変わったのは、
見る側です。
新しい意味を知る前には存在しなかった内部表現を、今の自分は持っています。
だから、同じ図をもう一度見ても、
以前とまったく同じ条件では見ることができません。
もちろん、壺を見ることもできます。
顔を見ることもできます。
認識を切り替えることもできます。
しかし、
「この図には二人の横顔も存在する」ということを知らなかった自分として見ることは、もうできません。
第3回のあなたと、今のあなた
ここで、もう一度この図を見てください。
この図は、第3回で見た図と同じです。
しかし、
第3回で初めてこの図を見たときのあなたと、
第8回まで読み進めた今のあなたは、
同じでしょうか。
図は変わっていません。
あなたの内部にある情報が変わっています。
第3回でこの図を見たという経験も、
ダリの二重像を見たという経験も、
ここまで本書を読み進めてきたという経験も、
すでにあなたの内部表現の一部になっています。
つまり、
この文章を読む前のあなたと、今この文章を読んでいるあなたは、まったく同じ内部表現を持つ人間ではありません。
ここで、これまで説明してきたことを、
読者自身が体験することになります。
「見る前の自分」に戻ることはできるのだろうか
私たちは、新しいものを見るたび、
新しいことを知るたび、
内部表現を変化させています。
そして、その内部表現を使って、
次の世界を認識します。
ならば、
新しい意味を知るということは、
単に知識が一つ増えるということなのでしょうか。
それとも、
それ以降の「見る」という行為そのものを変えてしまうことなのでしょうか。
一度見えてしまったものを、
「知らなかったこと」にすることはできません。
一度書き換えられた内部表現を持ったまま、
私たちは次のものを見ます。
作品は変わっていません。
しかし、
それを見る人間は変わりました。
そして、
見る人間が変われば、
同じ視覚情報から構築される現実も変わります。
では――
その変化は、本当に一枚の絵の中だけで終わるのでしょうか。


