芸術論講義室
2026-08-14 08:32:00
同じ絵から、異なる意味を見ることはできるのだろうか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第7回 同じ絵から、異なる意味を見ることはできるのだろうか
はじめに
前回、ジュゼッペ・アルチンボルドの「複合肖像」を通して、画面に描かれた個々の情報を統合することで、そこには直接描かれていない別の意味が生まれることを見てきました。
果物は果物として見えています。
野菜は野菜として見えています。
花は花として見えています。
しかし、それらを全体として捉えた瞬間、
「人間の顔」
という、個々の物体には存在していなかった別の意味が現れます。
では、さらに一歩進んでみます。
もし、同じ一つの視覚情報から、
まったく異なる複数の意味を成立させることができるとしたら、どうでしょうか。
今回取り上げるのは、サルバドール・ダリの「二重像」です。
ダリの「二重像」
サルバドール・ダリは、見る者の知覚や認識を揺さぶるような作品を数多く制作しました。
その中でも今回注目したいのが、一つの視覚情報から複数の像を成立させる「二重像」です。
その代表的な作品の一つに、1940年に制作された《奴隷市場、消えゆくヴォルテールの胸像》があります。
作品の中には、多くの人物や建物、物体などが描かれています。
そして画面中央付近を見ると、そこには二人の人物がいます。
まずは、その二人を人物として見てみます。
二人の人物が並んでいる。
それだけです。
ところが、少し視点を変え、画面全体の関係として捉えてみると、突然まったく別のものが現れます。
ヴォルテールの胸像です。
先ほどまで二人の人物として見えていた形が、今度はヴォルテールの顔を構成する一部として見えてきます。
(サルバドール・ダリ美術館の教育資料より)
絵は何も変わっていない
ここで重要なことがあります。
絵そのものは、何も変わっていません。
二人の人物を見ていたときも、
ヴォルテールの胸像を見ているときも、
キャンバスの上に置かれた絵具は同じです。
色も変わっていません。
形も変わっていません。
位置も変わっていません。
明暗も変わっていません。
つまり、
目に入ってくる視覚情報そのものは同じです。
それにもかかわらず、
私たちが見ているものは変わります。
ある瞬間には、
「二人の人物」
だったものが、
次の瞬間には、
「ヴォルテールの顔」
になります。
外部の情報は変わっていない。
しかし、
認識された意味が変わっているのです。
どちらが本当なのだろう
ここで、一つの問いが生まれます。
二人の人物が本当なのでしょうか。
それとも、ヴォルテールの顔が本当なのでしょうか。
しかし、この問いそのものが少し奇妙です。
なぜなら、
どちらも同じ絵の中に成立しているからです。
人物が消えて、ヴォルテールが描き加えられたわけではありません。
ヴォルテールが消えて、人物が描き加えられたわけでもありません。
同じ視覚情報から、
「人物」という意味と、
「ヴォルテール」という意味が成立している。
違っているのは絵ではありません。
私たちの認識です。
意味が変わると、部分の役割まで変わる
さらに面白いことがあります。
最初に二人の人物を見ているとき、その形は、
「人物」
として認識されています。
ところが、ヴォルテールの胸像が見えた瞬間、それまで人物として認識していた同じ形が、
ヴォルテールの顔を構成する要素
として働き始めます。
同じ形です。
同じ色です。
同じ場所にあります。
それなのに、
全体として何を認識するかによって、部分が持つ意味や役割まで変わる。
これは、前回のアルチンボルドでも見られた現象ですが、ダリの二重像では、その切り替わりがより鮮明に体験できます。
一枚の絵の中で、
人物が人物でありながら、
同時に別の顔を構成する要素にもなる。
視覚情報は一つです。
しかし、
そこから成立する意味は一つではありません。
同じものを見ているのに、同じものを見ていない
ここで、第2部で考えてきた認識の問題が再び顔を出します。
私たちは外界そのものを、そのままコピーして経験しているわけではありません。
外部から入ってきた情報をもとに、それを統合し、内部表現と照合しながら、「何を見ているのか」を認識しています。
ダリの二重像では、外部から入ってくる視覚情報は変化していません。
それでも、
認識されるものは変化します。
これは非常に重要です。
私たちは同じ絵を見ています。
しかし、
同じものを見ているとは限らないのです。
「見える」という経験は、どこで生まれているのだろう
ここまでくると、
「絵を見る」
という、ごく当たり前に思える行為そのものが少し不思議に見えてきます。
目の前には、一枚の絵があります。
その絵は変化していません。
それなのに、
ある瞬間には人物が見え、
ある瞬間にはヴォルテールが見える。
では、
私たちが経験している「見えているもの」は、どこで生まれているのでしょうか。
少なくとも、キャンバスの上に存在する物理的な情報だけでは説明できません。
同じ情報から、異なる意味が成立しているからです。
私たちが経験している「見えている世界」は、外部から入ってきた視覚情報そのものではなく、
その情報をもとに、人間の認識によって構築されたものです。
ここで第2部で考えてきたことが、芸術作品の鑑賞という具体的な経験として現れてきます。
一度「見えて」しまったら
そして、ここからもう一つ、興味深い問題が生まれます。
最初にこの作品を見たとき、ヴォルテールの存在に気づかなかったとします。
そこには、人物や建物やさまざまな物体が描かれた一枚の絵がありました。
ところが、
「ここにヴォルテールの顔があります」
と教えられたとします。
そして一度、
ヴォルテールが見えた。
その瞬間、鑑賞者の中には、それまで存在していなかった情報が生まれます。
「この形の組み合わせは、ヴォルテールの顔として見ることができる。」
という情報です。
絵は変わっていません。
しかし、
鑑賞者の内部にある情報は変わりました。
そして、もう一度同じ絵を見ます。
すると、最初に見たときには存在しなかったヴォルテールが、今度は容易に現れるかもしれません。
外部の作品は同じです。
変わったのは、
見る側です。
同じ絵なのに、同じ現実ではない
これは、単に「隠し絵の答えを知った」という話だけではありません。
同じ作品。
同じ色。
同じ形。
同じ視覚情報。
それでも、
鑑賞者の内部にある情報が変化することで、同じ作品から認識されるものが変わる。
ということです。
第2部では、
内部表現が変化すれば、認識される現実も変化する。
という問題について考えてきました。
ダリの二重像は、そのことを一枚の絵の中で体験させます。
作品は何も変わっていない。
それなのに、
昨日まで見えなかったものが、今日は見える。
そして一度見えるようになったものは、次に同じ作品を見たときにも、私たちの認識に影響します。
見る前の自分に戻ることはできるのだろうか
第5回の《大使たち》では、
見えている。しかし、その情報が持つ意味は意識されていない。
という現象を見ました。
第6回のアルチンボルドでは、
見えている情報を統合することで、そこには直接描かれていない別の意味が生まれる。
という現象を見ました。
そして今回、ダリの二重像では、
同じ視覚情報から、異なる複数の意味が成立する。
という現象を見ました。
しかし、ダリの作品は、さらにもう一つの問題を私たちに突きつけます。
新しい意味を知る前と、
知ったあと。
目の前にある作品は、まったく同じです。
しかし、
それを見る私たちは、もう同じではありません。
ならば――
一度新しい意味を知ってしまったあと、私たちは本当に「見る前の自分」に戻ることができるのでしょうか。

