芸術論講義室
2026-08-25 09:55:00
なぜ、内部表現は簡単には変わらないのか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第15回 なぜ、内部表現は簡単には変わらないのか
前回、私たちは、
内部表現が意識に上がると、なぜ現実は揺らぐのか
について考えました。
普段、私たちは、自分がどのような内部表現を使って現実を認識しているのかを意識していません。
ただ、
「これが現実だ」
と思って生きています。
しかし、何らかのきっかけによって、
「私は、なぜこのように現実を認識しているのだろう」
という問いが生まれることがあります。
そのとき、それまで現実を認識するために無意識に使われていた内部表現そのものが、顕在意識による検討の対象になります。
では、一度内部表現が意識に上がれば、それを簡単に変えることができるのでしょうか。
おそらく、そう単純ではありません。
今回は、
なぜ内部表現は、それほど簡単には変わらないのか。
そこから考えてみたいと思います。
内部表現は、単なる知識ではない
まず、ここを明確にしておく必要があります。
本書でいう内部表現は、単なる知識のことではありません。
新しい情報を知った。
間違っていた情報を訂正した。
そうした知識の追加や修正を、ここでは内部表現の書き換えとは考えません。
問題にしているのは、もっと根本的なものです。
世界とは、どのようなものなのか。
他者とは、どのような存在なのか。
自分とは、どのような人間なのか。
何が重要なのか。
何が怖いのか。
何を信じるのか。
何を嫌うのか。
何を当然だと思うのか。
何を現実だと思うのか。
そうした、その人が現実を認識することそのものに関わるものを、ここでは内部表現として考えています。
だから、内部表現は、
「少し考え方を変えてみる」
という程度のことで簡単に変化するものではありません。
内部表現には、感情が結びついている
例えば、
「あの人は嫌な奴だ」
という内部表現が、すでに強固に形成されているとします。
その人を見たとき、
嫌だ。
近づきたくない。
話したくない。
警戒する。
腹が立つ。
緊張する。
さまざまな感情や反応が起こるかもしれません。
つまり、
「あの人は嫌な奴だ」
という内部表現は、単なる言葉として頭の中に存在しているわけではありません。
そこには、それまでの経験があり、
記憶があり、
感情があり、
場合によっては身体の反応まで結びついています。
だから強い。
顕在意識で、
「ひょっとすると、自分はこの人を誤解しているのかもしれない」
と考えたからといって、
次に会った瞬間から、その人がまったく違って見えるとは限りません。
頭では疑うことができても、
その人を見た瞬間、
やはり嫌悪感が生じるかもしれない。
つまり、
内部表現を意識に上げることと、内部表現そのものが変わることは同じではありません。
内部表現は、新しい出来事を解釈する
さらに重要なことがあります。
私たちは、新しい出来事を何の前提もなく受け取っているわけではありません。
すでに持っている内部表現を使って、新しい出来事を認識します。
「あの人は嫌な奴だ」
という内部表現が成立している状態で、その人と話したとします。
思っていたより普通に会話できた。
だから、
「ひょっとすると、いい人なのかもしれない」
となるでしょうか。
おそらく、そう簡単ではありません。
むしろ、
「何とか今日もやり過ごすことができた。」
「やっと終わった。」
「もう二度と話したくない。」
そのような経験になるかもしれません。
重要なのは、
実際に会話が成立したという出来事があっても、
その出来事の意味そのものが、すでに存在する内部表現によって決められている
ということです。
何を認識するのかも、内部表現によって変わる
さらに、内部表現は出来事の意味を決めるだけではありません。
そもそも、
何を重要な出来事として認識するのか
にも関わっています。
人間は、外界から入ってくる膨大な情報のすべてを、同じ強さで意識しているわけではありません。
自分にとって重要なものが意識に上がります。
そして、
何が重要なのかを決めているものの一つが、内部表現です。
「あの人は嫌な奴だ」
という内部表現があれば、
相手の表情。
言葉遣い。
声の調子。
態度。
その中から、自分の内部表現に関係するものが強く意識される。
反対に、その内部表現にとって意味を持たないものは、見ていたとしても重要な出来事として意識に残らないことがあります。
つまり内部表現は、
新しい出来事を解釈するだけではなく、
その人にとって、何が現実として立ち現れるのかにも関わっています。
内部表現の写し鏡として、現実が立ち現れる
ここまで考えると、
内部表現と現実を、別々のものとして考えること自体が適切ではなくなってきます。
内部表現があり、
その後に現実を認識し、
最後に両者を照合しているのではありません。
内部表現によって、
何を見るのかが決まり、
何を重要だと思うのかが決まり、
出来事の意味が決まり、
感情が生じ、
行動が起こる。
それらが一体となって、
その人が経験している現実が成立します。
だとすれば、
その人が経験している現実とは、
その人の内部表現の写し鏡
と考えることができます。
ここでいう、
内部表現=現実
とは、その意味です。
外界そのものと内部表現が同じだという意味ではありません。
その人が実際に経験することのできる現実において、
内部表現と現実は切り離すことができない
ということです。
だから、内部表現と現実は矛盾しない
内部表現の写し鏡として、その人の現実が立ち現れているのであれば、
通常、
内部表現と、その人が経験している現実が矛盾することはありません。
「あの人は嫌な奴だ」
という内部表現を持っている人には、
実際に、
「嫌な奴が目の前にいる」という現実
が経験されています。
その人と話せば、
「嫌な奴と話をした」
という経験になる。
無事に会話が終われば、
「嫌な奴との会話を何とかやり過ごした」
という経験になる。
そして、
「やっぱり、もう関わりたくない」
となる。
本人にとっては、
何も矛盾していません。
むしろ、
現実を経験するたびに、自分が現実だと思っているものが確認されていきます。
だから、
「自分の見方が間違っているのではないか」
と疑う必要そのものがありません。
本人にとって、内部表現は「思い込み」ではない
他人から見れば、
「それは思い込みではないか」
と思うことがあるかもしれません。
しかし、本人にとっては違います。
本人は、
「私はこういう思い込みを持っている」
と思いながら世界を見ているわけではありません。
自分が経験する現実の中で、
何度も、
「やはりそうだ」
という経験をしています。
だから本人にとって、それは仮説ではありません。
現実です。
ここに、内部表現の強固さがあります。
内部表現を変えるということは、
単に一つの考え方を別の考え方へ置き換えることではありません。
その人が、
「これこそが現実だ」
と思って生きてきた世界そのものに関わる問題なのです。
内部表現を疑うことは、現実を疑うことになる
ここまで来ると、一つの重要な関係が見えてきます。
内部表現を疑うとは、自分の現実を疑うことになる。
なぜなら、
内部表現の写し鏡として、自分の現実が成立しているからです。
そして逆も成立します。
現実を疑うとは、自分の内部表現を疑うことになる。
それまで、
「世界とはこういうものだ」
と思っていた。
しかし、何らかの理由によって、
「本当にそうなのだろうか。」
という疑問が生じる。
その瞬間、
それまで現実そのものと一体になっていた内部表現にも、疑いが向かいます。
この二つは切り離すことができません。
内部表現が揺らげば、現実が揺らぐ。
そして、
現実が揺らげば、内部表現も揺らぐ。
では、どうすれば現実に亀裂が入るのか
ここで問題が生じます。
内部表現の写し鏡として現実が成立している。
その現実は、内部表現と矛盾しない。
では、
いったい何が起これば、その現実に亀裂が入るのでしょう。
通常の出来事であれば、既存の内部表現によって処理することができます。
多少予想外のことが起きても、それまでの現実の中へ取り込むことができます。
しかし、ときとして、
それまでの内部表現では、どうしても処理しきれない出来事
が起こることがあります。
例えば、
ずっと嫌な人間だと思っていた人物が、
自分を助けるために、
自分自身を危険にさらしてまで守ってくれた。
そこまで強烈な出来事が起きたとします。
単に親切にされた程度なら、
これまでの内部表現の中で処理できるかもしれません。
しかし、
それまでの内部表現では、どうしても説明しきれない出来事が目の前で起きた。
そのとき、
初めて、
「おかしい。」
が生まれます。
現実の側から、内部表現が揺さぶられる
ここで重要なのは、
内部表現と、それによって構築された現実が矛盾したのではないということです。
それまでは、
内部表現の写し鏡として、現実は問題なく成立していました。
しかし、
それまでの内部表現では従来どおりの現実を構築し続けることが困難になるほどの出来事
が入ってきた。
そのとき初めて、
それまで疑う必要すらなかった内部表現そのものが、意識に上がる可能性があります。
「私は、あの人を嫌な人間だと思っていた。」
しかし、
「本当にそうなのだろうか。」
ここで初めて、
それまで世界を見るために使っていた内部表現そのものへ、意識が向かいます。
現実が崩れるから、内部表現が見えることもある
前回は、
内部表現が意識に上がることで、
現実の自明性が揺らぐことを考えました。
しかし、ここまで考えてくると、
逆方向も存在することが分かります。
内部表現が意識に上がることで、現実が揺らぐ。
そして、
それまでの現実が維持できなくなることで、内部表現そのものが意識に上がる。
この二つは、互いに関係しています。
普段は、
内部表現と現実が一体になっている。
だから内部表現は見えません。
しかし、
その現実に大きな亀裂が入る。
すると、
「自分は、何によってこの現実を見ていたのだろう。」
という問いが生まれる。
ここで、
内部表現が顕在意識へ姿を現します。
現実が崩れるとは何か
ここでいう、
「現実が崩れる」
とは、物理的な世界が崩壊するという意味ではありません。
それまで疑う必要すらなかった、
「これが現実である」
という確信が、そのままでは維持できなくなるということです。
そして、内部表現と現実が切り離せないのであれば、
内部表現を書き換えるということは、それまでの現実そのものが揺らぐことを伴う
可能性があります。
だから内部表現は、簡単には変わらない。
それは単なる知識でも、
単なる考え方でもないからです。
その人が、それまで実際に生きてきた現実そのものだからです。
しかし――
現実に亀裂が入ったからといって、
それまでの内部表現が、その瞬間に消えてなくなるわけではありません。
頭では、
「自分は間違っていたのかもしれない」
と考えることができる。
それでも、
その人を見れば、
以前と同じ感情が生じるかもしれません。
嫌悪感。
恐怖。
怒り。
不安。
それまで内部表現と結びついていた感情は、簡単には消えない。
ここには、
顕在意識で理解することと、内部表現そのものが変化することとの間に、まだ大きな隔たりがあります。
では――
現実に亀裂が入り、それまでの内部表現を疑うことができるようになったあと、内部表現そのものが本当に変わるためには、何が起こらなければならないのでしょう。
次は、そこから考えてみたいと思います。
