芸術論講義室
2026-08-31 14:24:00
過去・現在・未来は、別々の現実なのか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第18回 過去・現在・未来は、別々の現実なのか
前回、私たちは記憶について考えました。
記憶とは、過去に起きた出来事を、そのまま保存し、必要なときに再生するものではありません。
私たちは現在において、過去の経験に関係するさまざまな情報をもとに、過去を再構築しています。
そして、その再構築には、
現在の内部表現
が大きく関わっているのではないかと考えました。
内部表現が変われば、同じ出来事を思い出しても、その意味が変わることがあります。
過去に起きた出来事そのものが変わるわけではありません。
しかし、
現在において経験される過去は変わり得る。
ここまで考えたところで、一つの疑問が生じました。
私たちは当然のように、
過去。
現在。
未来。
という三つの時間を分けて考えています。
そして、
過去の現実。
現在の現実。
未来の現実。
というように、それぞれを別々のものとして考えています。
しかし、人間が経験する「現実」というところから考えたとき、
過去・現在・未来は、本当に別々の現実なのでしょうか。
今回は、この問題について考えてみたいと思います。
まだ存在しない未来を、なぜ私たちは経験できるのか
この問題を考えるために、まず未来から始めてみます。
未来は、まだ起きていません。
例えば、
明日、大勢の人の前で重要な発表をするとします。
まだ発表は始まっていません。
失敗もしていません。
成功もしていません。
質問されてもいません。
何一つ起きていない。
それなのに、
「失敗したらどうしよう。」
「うまく話せなかったらどうしよう。」
「質問に答えられなかったらどうしよう。」
と考え、不安になることがあります。
逆に、
「きっとうまくいく。」
「みんなに伝わったらうれしい。」
「これをきっかけに新しいことが始まるかもしれない。」
と期待することもあります。
まだ何も起きていない未来が、
今の自分を不安にさせたり、今の自分に希望を与えたりしています。
これは少し不思議なことです。
未来の出来事そのものが、現在の自分に作用しているわけではありません。
未来の出来事は、まだ存在していないからです。
では、現在の自分を不安にさせたり、期待させたりしている「未来」とは何なのでしょう。
それは、
現在の自分が構築した未来
です。
私たちは、すべての未来を想像しているわけではない
未来には、無数の可能性があります。
しかし私たちは、そのすべてについて考えているわけではありません。
明日の朝、何羽の鳥が家の上を飛ぶのか。
一週間後、知らない町の知らない人が何を食べるのか。
十年後、どこかの森の一本の木から何枚の葉が落ちるのか。
そのような未来について、普通は考え続けません。
なぜでしょう。
自分にとって重要ではないからです。
反対に、
明日の仕事。
家族のこと。
健康のこと。
自分の将来。
楽しみにしている旅行。
心配している出来事。
こうした未来については何度も考えます。
つまり私たちは、無限に存在する未来の可能性の中から、
自分にとって重要な未来を選び出している
と考えることができます。
では、
何が重要で、
何が重要ではないのか。
その評価に関わっているものが、
これまで考えてきた内部表現ではないでしょうか。
内部表現は「重要性」を評価しているのではないか
これまで本書では、
現実とは、内部表現の写し鏡として立ち現れる
と考えてきました。
ここに今回、もう一つの視点を加えてみます。
外界にも、記憶にも、未来の可能性にも、膨大な情報があります。
人間は、そのすべてを同じ重さで扱っているわけではありません。
何を見るのか。
何を無視するのか。
何を覚えているのか。
何を思い出すのか。
何を予測するのか。
何を心配するのか。
何を期待するのか。
そこには常に、
「自分にとって重要かどうか」
という選別があります。
だとすれば、内部表現には、
その人にとって何が重要なのかを評価する働き
があるのではないでしょうか。
内部表現を、単なる知識や情報の集積として考えるだけでは不十分です。
その人が、
何を大切だと思うのか。
何を恐れるのか。
何を嫌うのか。
何を求めるのか。
何を失いたくないのか。
何に注意を向けるのか。
そうした重要性の評価まで含めて、内部表現が成立している。
そして、その評価によって、
何がその人の現実として立ち現れるのかが変わる。
そう考えることができます。
重要性は、何を基準に決まるのか
ここで、さらに一つの疑問が生じます。
では、人間は何を基準に、
「これは重要だ」
と判断しているのでしょう。
例えば、明日の発表が重要なのはなぜでしょう。
失敗したくない。
恥をかきたくない。
成功したい。
認めてもらいたい。
自分の考えを伝えたい。
その先に進みたい。
そこには、
不安。
恐怖。
期待。
希望。
喜び。
といった感情があります。
未来について何度も考えるのは、
単にその出来事についての情報を持っているからではありません。
その未来が、自分にとって何らかの感情的価値を持っているからではないでしょうか。
だとすれば、
人間にとっての重要性は、感情的価値をベースとしているのではないか。
という仮説が生まれます。
これは、今回の考察の途中で見えてきた新しい問題です。
そして、この問題は未来だけに関係するものではありません。
過去もまた、重要なものとして立ち現れる
では、過去について考えてみます。
私たちは、生まれてから現在までに膨大な出来事を経験しています。
しかし、そのすべてをいつでも思い出しているわけではありません。
昨日歩いた道で何歩歩いたのか。
一年前の今日、何時何分に何を見ていたのか。
十年前のある日の昼食で何を食べたのか。
その多くは、意識的に思い出すことさえありません。
一方で、何十年経っても忘れられない出来事があります。
怖かったこと。
悲しかったこと。
腹が立ったこと。
恥ずかしかったこと。
うれしかったこと。
大切な人との出来事。
人生を変えた出来事。
そこには多くの場合、
強い感情的価値があります。
もちろん、感情だけで記憶のすべてを説明することはできません。
しかし少なくとも、
現在の自分にとって何が重要なのかという評価が、
どの過去が意識に立ち現れるのかに深く関係していると考えることはできます。
そして前回考えたように、
過去を思い出すとき、その再構築には現在の内部表現が関わっている。
つまり、
過去もまた、現在の内部表現によって重要性を与えられ、現在に立ち現れている
と考えることができます。
では、現在は違うのだろうか
ここで現在について考えてみます。
現在だけは、過去や未来とは違うように思えます。
過去は記憶です。
未来は予測や想像です。
しかし現在は、
今、目の前に実際に存在している世界
です。
しかも私たちは、未来への不安や過去への後悔のように、現在のすべてに強い感情を抱いているわけではありません。
目の前に机がある。
窓がある。
道路がある。
木がある。
そのすべてに、喜びや悲しみを感じているわけではない。
ならば、現在だけは感情とは関係なく、外界をそのまま認識しているのでしょうか。
しかし、これまで本書で考えてきたことを思い出すと、そう単純ではありません。
外界には膨大な情報があります。
そのすべてが、私たちの意識に「現実」として立ち現れているわけではありません。
私たちは、
見るものと見ないもの。
気づくものと気づかないもの。
重要なものと重要ではないもの。
注意を向けるものと無視するもの。
を絶えず選別しています。
そして、その選別にも内部表現が関わっています。
木漏れ日は、以前からそこにあった
以前取り上げた、木漏れ日の例を思い出してみます。
毎日歩いている道に、木漏れ日があった。
光は以前から木々の間を通り抜け、地面に落ちていました。
しかし、その人はそれを意識していなかった。
ところが、街角のギャラリーで一枚の絵を見る。
そこには、美しい木漏れ日が描かれていた。
その後、いつもの道を歩いたとき、
初めて木漏れ日に気づく。
外界に新しく木漏れ日が生まれたわけではありません。
変化したのは、
その人にとっての木漏れ日の重要性
です。
それまで重要ではなかったものが、
美しいもの。
気になるもの。
見る価値のあるもの。
として内部表現の中に位置づけられた。
すると、
昨日まで意識されなかった木漏れ日が、
今日の現実に立ち現れる。
この例からも、
現在の現実は、外界に存在するすべての情報をそのまま映したものではないことが分かります。
現在の内部表現によって重要性を与えられたものを中心として、現在の現実が立ち現れている。
そう考えることができます。
現在の現実も、感情から独立しているのだろうか
ここまで考えると、現在についても新しい疑問が生じます。
木漏れ日が重要になったのは、
単に、
「木々の間を通過した光が地面に斑状の明暗を作っている」
という情報を知ったからでしょうか。
それだけではありません。
美しい。
という感情的価値が加わった。
だからこそ、それまで意識されなかったものが重要になったのではないでしょうか。
そうであれば、
現在の現実もまた、感情とは無関係ではありません。
私たちはまず無色透明な現実を認識し、その後で感情を付け加えているだけではないのかもしれません。
何が重要なのか。
何に注意を向けるのか。
何を現実として意識するのか。
その選別の根底に、すでに感情的価値が存在している可能性があります。
だとすれば、
現在の現実もまた、感情的価値をベースとした内部表現によって立ち現れている
ことになります。
過去・現在・未来に共通するもの
ここで、もう一度三つを並べてみます。
過去には、すでに起きた出来事があります。
現在には、今この瞬間の外界からの感覚入力があります。
未来には、まだ起きていない可能性があります。
この三つは同じものではありません。
しかし、
人間がそれらを「現実」として経験する仕組み
というところから見ると、共通した構造が見えてきます。
過去は、
現在の内部表現によって重要性を評価され、
記憶として再構築され、
現在に立ち現れる。
未来は、
現在の内部表現によって重要性を評価され、
予測や想像として構築され、
現在に立ち現れる。
現在は、
現在の内部表現によって重要性を評価され、
膨大な感覚情報の中から選別され、
現在の現実として立ち現れる。
つまり、
過去も、現在も、未来も、現在の内部表現を通して、現在に立ち現れている。
ここに、三者の共通点があります。
違うのは「現実」ではなく、その材料なのかもしれない
もちろん、過去・現在・未来を完全に同一のものだとすることはできません。
過去には記憶という材料があります。
現在には現在進行中の感覚入力があります。
未来には予測や想像があります。
使われる材料が違います。
しかし、人間が経験する現実という側から考えると、
それらはすべて、
現在の内部表現によって構築され、現在の意識に立ち現れている
という点では共通しています。
だとすれば、
私たちが、
「過去の現実」
「現在の現実」
「未来の現実」
と呼んでいるものは、
三つの独立した現実なのではなく、
一つの現実の中に、過去・現在・未来という異なる方向が存在している
と考えることもできるのではないでしょうか。
まだ、ここで結論を出す必要はありません。
しかし少なくとも、
過去・現在・未来を、最初から別々の現実として扱わなければならない理由はなくなってきました。
すべては「今」に立ち現れている
昨日の出来事を思い出しているとき、
私たちは昨日へ戻っているわけではありません。
今、昨日を経験しています。
明日の出来事を想像しているとき、
私たちは未来へ行っているわけではありません。
今、未来を経験しています。
そして現在についても、
外界に存在する膨大な情報のすべてをそのまま経験しているのではなく、
現在の内部表現によって重要性を与えられたものを中心として、
今、この現実を経験しています。
そう考えると、
過去・現在・未来という区別は、
人間が経験する「現実」そのものを三つに分割しているというより、
現在に立ち現れている現実を、時間という方向から分類している
だけなのかもしれません。
そして、感情という新しい問題が残った
今回、過去・現在・未来を考えている途中で、
予想していなかった問題が浮かび上がってきました。
それが、
感情
です。
人間は、何を重要だと判断するのでしょう。
なぜ、それを重要だと判断するのでしょう。
未来を不安に思う。
過去を後悔する。
現在の何かを美しいと思う。
危険を恐れる。
大切なものを失いたくないと思う。
何かを欲しいと思う。
何かを避けたいと思う。
その根底には、
感情的な価値
があります。
だとすれば、
内部表現に感情という要素が付け加わっているのではなく、
そもそも、
人間にとっての重要性そのものが、感情的価値をベースとしているのではないか。
そして内部表現が、
その人にとって何が重要なのかを評価する構造でもあるのなら、
さらに大きな疑問が生じます。
感情は、内部表現に影響を与える一つの要素にすぎないのでしょうか。
それとも、
感情的価値こそが、内部表現による重要性の評価を成立させている、より根本的な基盤なのでしょうか。
もしそうだとすれば、
内部表現の写し鏡として立ち現れる現実もまた、
最初から感情的な価値によって色づけられていることになります。
過去も。
現在も。
未来も。
私たちは、感情とは無関係な無色透明の現実をまず経験し、その後で喜んだり、悲しんだり、恐れたりしているのでしょうか。
それとも、
私たちが「現実」と呼んでいるものは、最初から感情によって色づけられているのでしょうか。
次回は、この問題について考えてみたいと思います。
