芸術論講義室
2026-08-17 13:53:00
私たちは、なぜ目の前にあるものを見過ごすのだろう
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第10回 私たちは、なぜ目の前にあるものを見過ごすのだろう
道を歩いているとします。
私たちは、ただ歩いているわけではありません。
会社へ行く。
買い物へ行く。
誰かに会いに行く。
家へ帰る。
そこには、現在地から目的地へ向かう一つの動線があります。
そして多くの場合、私たちの意識は、身体よりも先にその動線の先へ向かっています。
これから会う人のことを考えているかもしれません。
今日これからする仕事のことを考えているかもしれません。
昨日あった出来事を思い出し、歩きながら腹を立てているかもしれません。
これから起こる楽しいことを想像して、ひとりで笑っているかもしれません。
身体は、今ここを歩いています。
しかし、
意識は必ずしも「今ここ」にあるわけではありません。
道の途中には、たくさんのものがある
目的地へ向かう途中にも、世界は存在しています。
道端には花が咲いています。
鳥が鳴いています。
風が吹いています。
街路樹の葉が揺れています。
葉の隙間から太陽の光が差し込み、歩道には無数の光と影が落ちています。
木漏れ日です。
しかし、目的地へ向かって歩いている人は、それらすべてを一つひとつ意識しているわけではありません。
昨日まで、その道を何度歩いても、木漏れ日を意識したことがなかったかもしれません。
では、木漏れ日は見えなかったのでしょうか。
そうではありません。
木漏れ日は、そこにありました。
ただ、
意識に上がらなかった。
人間は、すべてを認識しているわけではない
私たちの周囲には、膨大な情報があります。
もし、そのすべてを同じ重要度で認識し続けなければならないとすれば、日常生活を送ることは困難になります。
だから人間は、自分にとって重要なものを選択して認識しています。
目的地へ向かって歩いているのであれば、
どちらへ曲がるのか。
信号は何色なのか。
車が来ていないか。
目的の建物はどこなのか。
そうした情報の重要性は高くなります。
一方で、
歩道に落ちている光の形がどのように変化しているのか。
葉の緑が光によってどのような色に見えているのか。
影の中にどのような色が存在しているのか。
そうした情報は、その人にとって重要でなければ意識に上がりません。
そして、
何を重要とするのかを規定しているのが、その人の内部表現です。
私たちは、すでに同じことを見ている
第2回「構図は人の視線を操ることができるのだろうか」では、視線誘導について考えました。
人間の意識を特定の対象へ向ける。
すると、その導線上に別の情報が存在していても、意識が別の対象へ向けられているため、その情報は顕在意識には上がらないことがあります。
そのとき私たちは、作品によって意図的に視線や意識を誘導する可能性について考えました。
しかし、今回の木漏れ日の場合、誰かが意図的に視線を誘導しているわけではありません。
目的地へ向かって歩いている。
仕事のことを考えている。
誰かに会うことを考えている。
過去の出来事を思い出している。
その人自身の内部表現によって、何が重要なのかが決まり、意識が方向づけられています。
つまり私たちは日常生活の中でも、
目の前に存在するすべてを見ているのではなく、重要なものを選択しながら現実を認識している
ということです。
そこへ、一枚の絵が現れる
前回、街角の小さなギャラリーで、一枚の水彩画を見ました。
画家は、木漏れ日に注目していました。
葉の隙間から落ちる光。
地面にできる光の斑点。
光を受けた葉の色。
影の中の色。
光と影が作るリズム。
日常の風景の中では見過ごされていたかもしれない現象を、画家は一枚の作品として取り出しました。
そして、それを鑑賞者の目の前へ提示しました。
それまで重要ではなかった木漏れ日という現象を、
作品によって目の前に突き付けたのです。
鑑賞者は、木漏れ日を意識することになります。
光を見る。
影を見る。
葉を見る。
地面を見る。
それまで日常風景の中に埋没していたものが、一つの現象として意識に上がります。
ここで、
内部表現の書き換えが起こります。
そして、再び街を歩く
ギャラリーを出ます。
再び、いつもの街を歩きます。
街は何も変わっていません。
道路も同じです。
街路樹も同じです。
太陽も同じです。
歩道に落ちている木漏れ日も、以前からそこにありました。
しかし、一つだけ変わったものがあります。
それを見る人間の内部表現です。
木漏れ日という現象が、その人にとって意味を持つようになった。
重要性が変わった。
だから、それまでなら日常風景の中に埋没していた光と影が、意識に上がります。
そして、
「あ、木漏れ日だ。」
と気づく。
同じ街を歩いています。
同じ歩道を歩いています。
しかし、認識している現実は、以前とまったく同じではありません。
変わったのは、外の世界ではない
ここまでの流れを整理してみます。
作品を見る。
それまで意識していなかったものが意識に上がる。
内部表現が書き換えられる。
何を重要とするのかが変わる。
その結果、以前なら意識に上がらなかったものが意識に上がるようになる。
そして、
認識される現実が変わる。
外の世界に、新しい木漏れ日が生まれたわけではありません。
そこに存在していたものを認識するようになったのです。
だとすれば、
私たちが日常「現実」として認識しているものは、目の前に存在するすべてではないことになります。
膨大な情報の中から、
自分にとって重要なものが選択され、
それが意識に上がり、
その人にとっての現実を作っている。
そして、その重要性を規定している内部表現が変われば、
同じ世界の中で、違う現実が見え始める。
木漏れ日は、最初からそこにありました。
それでも、私たちは気づかなかった。
では――
今、この瞬間にも、目の前に存在しているにもかかわらず、私たちが重要ではないと判断し、意識に上げていないものがあるのではないでしょうか。
そしてもし、
自分が「現実」だと思っているものが、自分自身の内部表現によって選択されたものだと気づいたとしたら。
そのとき、
私たちが現実だと思っていたものは、少しずつ揺らぎ始めるのかもしれません。
