芸術論講義室
2026-08-18 23:34:00
内部表現が変わると、なぜ現実が変わるのか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第11回 内部表現が変わると、なぜ現実が変わるのか
私たちは、同じ世界を生きています。
同じ街を歩き、
同じ空を見上げ、
同じように人と出会い、
同じ社会の中で生活しています。
しかし、本当に同じ現実を生きているのでしょうか。
前回まで、人間は目の前に存在するすべての情報を認識しているわけではないことを考えてきました。
膨大な情報の中から、自分にとって重要なものが選択され、意識に上がる。
そして、
何を重要とするのかを規定しているのが、その人の内部表現です。
だとすれば、当然、次のことが起こります。
内部表現が変われば、重要なものが変わる。
重要なものが変われば、
意識に上がるものが変わる。
そして、意識に上がるものが変われば、
その人が認識する現実も変わる。
今回は、このことをもう少し深く考えてみたいと思います。
同じ道を歩いていても、見えているものは違う
二人の人が、同じ街を歩いているとします。
一人は植物が好きな人です。
もう一人は建築に興味のある人です。
二人は同じ道を歩いています。
同じ街路樹があります。
同じ建物があります。
同じ店があります。
同じ空があります。
しかし、植物が好きな人には、
街路樹の種類、
葉の形、
季節による色の変化、
道端に咲いている小さな花、
新しく伸びた枝、
そうしたものが次々と目に入ってくるかもしれません。
一方、建築に興味のある人には、
建物の形、
窓の配置、
外壁の素材、
入口の構造、
古い建物と新しい建物の違い、
そうしたものが目に入ってくるでしょう。
外界は同じです。
しかし、
二人が認識している現実は同じではありません。
なぜでしょう。
二人が持っている内部表現が違うからです。
知らなければ、見えないものがある
これは専門家だけに起こることではありません。
例えば、何気なく夜空を見上げたとします。
星がたくさん見えています。
星座に詳しくなければ、
「星がたくさんある」
という風景かもしれません。
しかし、星座を知っている人には、
そこにオリオン座が見える。
冬の大三角が見える。
星と星の関係が見える。
もちろん、星座を知らない人の目にも、同じ星の光は届いています。
空に存在する星の位置が変わったわけでもありません。
変わったのは、
それを見る人間が持っている内部表現です。
新しい知識を得る。
内部表現が書き換わる。
すると、それまで無関係な光の点として見えていた星々が、星座という一つのまとまりとして認識されるようになる。
外界が変わったのではありません。
認識される現実が変わったのです。
一言で、同じ人が違って見えることもある
内部表現によって変わるのは、目に見える物だけではありません。
例えば、いつも無愛想な人がいたとします。
挨拶をしても反応が小さい。
あまり話さない。
目も合わせない。
あなたは、
「感じの悪い人だ」
と思っていたかもしれません。
ところが、ある日、その人をよく知る人から聞きます。
「あの人、人と話すとものすごく緊張するんですよ。」
その一言を聞いたあと、再びその人に会います。
相手は昨日と同じです。
あまり話しません。
目も合わせません。
行動そのものは、ほとんど変わっていない。
しかし今度は、
「感じが悪い」
ではなく、
「緊張しているのかもしれない」
と見えるかもしれません。
何が変わったのでしょう。
相手ではありません。
あなたの内部表現が変わったのです。
同じ行動を見ても、そこから認識される意味が変わった。
だから、
あなたにとってのその人の現実が変わった。
内部表現は、何度も書き換えられている
このようなことは、特別な出来事ではありません。
新しいことを知る。
誰かから話を聞く。
本を読む。
知らない場所へ行く。
誰かと出会う。
失敗する。
成功する。
何かを練習する。
自分で実際に経験する。
私たちは、こうした経験を繰り返しながら生きています。
そのたびに、新しい情報が、それまで持っていた内部表現と結びつきます。
場合によっては、それまでの理解が修正されます。
場合によっては、それまでまったく存在しなかった新しいまとまりが作られます。
つまり、
内部表現は固定されたものではありません。
私たちが生きている限り、経験によって変化し続けています。
変わるのは「見えるもの」だけではない
ここで、もう一歩進めてみます。
内部表現によって変わるのは、
「何が目に入るのか」
だけではありません。
同じ出来事に遭遇しても、
何を重要だと思うのか。
何を危険だと思うのか。
何を安心だと思うのか。
何を面白いと思うのか。
何を不快だと思うのか。
何を当然だと思うのか。
そこには、その人がそれまでに形成してきた内部表現が関係しています。
同じ出来事でも、
ある人には大きな問題に見える。
別の人には、ほとんど気にならない。
ある人には失敗に見える。
別の人には、次へ進むための経験に見える。
外界で起きた出来事が同じでも、
そこから認識される意味まで同じとは限りません。
私たちは、内部表現を通して現実を認識している
ここまで考えると、
「内部表現が変われば現実が変わる」
という言葉の意味が、少し見えてきます。
これは、
念じれば外の世界が変わる、
という話ではありません。
建物は建物として存在しています。
街路樹も存在しています。
他人も存在しています。
出来事も起こります。
外界そのものを、自分の都合で自由に変えることができるという話ではありません。
そうではなく、
人間は、外界から入ってきた情報を、その人が持っている内部表現を通して認識している。
だから、
内部表現が変われば、
何が重要なのかが変わる。
意識に上がるものが変わる。
ものとものとの関係が変わる。
出来事に与えられる意味が変わる。
そして、それらによって構築される、
その人が経験している現実が変わる。
ということです。
昨日の現実と、今日の現実
昨日まで、
無関係な光の点として見えていた星々が、
今日は星座というまとまりとして見える。
昨日まで、
ただの雑草だったものに、
今日は名前がある。
昨日まで、
感じの悪い人だった人が、
今日は緊張している人に見える。
外界が突然別のものになったわけではありません。
自分が変わった。
正確には、
自分の内部表現が変わった。
その結果として、
昨日と今日で、認識される現実が変わったのです。
これは私たちの日常の中で、絶えず起こっていることなのかもしれません。
では、今の現実はどうなのだろう
ここで、一つの疑問が生まれます。
新しい経験によって内部表現が書き換われば、
認識される現実も変わる。
だとすれば、
今、この瞬間に自分が「現実」だと思っているものは、何によって作られているのでしょうか。
私たちは生まれたときから、今と同じ内部表現を持っていたわけではありません。
これまで生きてきた中で、
見たもの。
聞いたもの。
教えられたこと。
覚えた言葉。
経験したこと。
成功したこと。
失敗したこと。
人から言われたこと。
自分で考えたこと。
そうした無数の経験によって、現在の内部表現が形成されてきたはずです。
そして、その内部表現によって、
今、何を重要だと思い、
何を意識に上げ、
何に意味を感じ、
何を当然だと思うのかが決まっている。
だとすれば――
私たちが今「現実」だと思っているものも、これまで形成されてきた内部表現によって認識された現実なのではないでしょうか。
では、
その内部表現は、
いったいどこから来たのでしょう。
