芸術論講義室
2026-08-19 08:51:00
その内部表現は、どこから来たのだろう
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第12回 その内部表現は、どこから来たのだろう
前回、私たちは、
内部表現が変われば、認識される現実も変わる
ということを考えました。
同じ街を歩いていても、植物に詳しい人と建築に詳しい人では、意識に上がるものが違う。
同じ人物の同じ行動を見ても、その人について新しいことを知れば、まったく違う意味に見えることがある。
外界が変わったわけではありません。
それを認識する人間の内部表現が変わったのです。
そして最後に、一つの疑問が残りました。
私たちは、その内部表現を使って現実を認識している。
では、
その内部表現は、いったいどこから来たのでしょう。
今回は、この問題を考えてみたいと思います。
私たちは、まったくの白紙から始まるわけではない
まず最初に、一つ確認しておく必要があります。
人間は、何もない完全な白紙の状態から内部表現を作り始めるわけではありません。
第2部でも考えたように、人間には生まれる以前から、外界から情報を受け取り、それを処理し、学習していくための生物としての基盤が備わっています。
見る。
聞く。
触れる。
身体を動かす。
刺激に反応する。
そして、経験から学習する。
内部表現は、そうした人間として備わった基盤の上に形成されていきます。
ただし今回は、何がどこまで生まれつき備わっているのかを詳しく考えることが目的ではありません。
ここで重要なのは、
私たちの内部表現は完全なゼロから始まるわけではない。
そのうえで、生まれてからの膨大な経験によって、少しずつ形成されていくということです。
経験によって、世界が作られていく
生まれたばかりの人間は、現在の私たちと同じように世界を認識しているわけではありません。
さまざまなものを見る。
音を聞く。
物に触れる。
身体を動かす。
人と接する。
同じような経験を何度も繰り返す。
そうした経験の積み重ねによって、
これはこういうものらしい。
こうすると、こうなるらしい。
これは自分にとって安全らしい。
これは危険らしい。
この人のそばにいると安心する。
こうすると褒められる。
こうすると叱られる。
という関係が少しずつ形成されていきます。
つまり私たちは、生きることそのものによって内部表現を作り続けています。
しかし、ここで重要なことがあります。
私たちが経験する世界には、最初から他者が存在しています。
言葉は、他者から与えられる
目の前に一匹の動物がいます。
子どもはそれを見ます。
そこへ大人が、
「犬だよ」
と言います。
別の犬を見る。
形も違う。
色も違う。
大きさも違う。
それでも、
「犬」
と教えられる。
さまざまな経験が繰り返される中で、「犬」というまとまりが形成されていきます。
私たちは、自分で一から言葉を発明したわけではありません。
すでに存在していた言葉を、他者から受け取っています。
そして言葉を覚えることによって、
物を区別し、
まとめ、
関係づけ、
意味を与えることができるようになります。
つまり言葉は、単に物に名前を貼り付けるだけではありません。
世界をどのように分け、どのようにまとめ、どのようなものとして認識するのかに関わっています。
そして、その言葉の多くは、
自分以外の誰かから与えられたものです。
「これはこういうものだ」と教えられる
他者から与えられるものは、言葉だけではありません。
「これは危ない。」
「これはしてはいけない。」
「こうすると人に迷惑がかかる。」
「こういうときには挨拶をする。」
「これは立派なことだ。」
「これは恥ずかしいことだ。」
子どもは、自分ですべてを経験してから判断しているわけではありません。
自分では経験したことのないことまで、他者から教えられます。
そして、それらは少しずつ内部表現へ組み込まれていきます。
やがて、いちいち、
「これは子どものころに親から教えられたことだ」
などと考えることもなくなります。
ただ、
「そういうものだ」
と思うようになります。
他者から与えられたものが、自分にとっての当たり前になっていくのです。
家庭から、学校へ
やがて子どもは、家庭よりも大きな社会へ入っていきます。
学校です。
そこでは、さらに膨大なものを学びます。
文字。
数字。
歴史。
地理。
科学。
社会。
規則。
集団での行動。
正解と不正解。
評価されること。
他者と比較されること。
学校で学ぶことによって、それまで知らなかった世界が見えるようになります。
これは内部表現を大きく豊かにすることでもあります。
しかし同時に、
教育とは、知識を追加するだけの行為ではありません。
何が重要なのか。
何を知るべきなのか。
何が正しいのか。
何をどのように分類するのか。
世界をどのようなものとして理解するのか。
そうした、世界を認識するための枠組みも形成されていきます。
つまり教育は、
その人の内部表現を形成する行為でもある
ということです。
さらに大きなものが、私たちを取り囲んでいる
内部表現を形成するものは、家庭や学校だけではありません。
友人。
地域。
社会。
文化。
時代。
本。
テレビ。
映画。
広告。
インターネット。
ニュース。
私たちは、さまざまな場所から情報を受け取り続けています。
そして、その中で、
普通とは何か。
成功とは何か。
失敗とは何か。
豊かさとは何か。
幸福とは何か。
正しい生き方とは何か。
そうしたものについても、少しずつ内部表現が形成されていきます。
もちろん、すべてをそのまま受け入れるわけではありません。
反発することもあります。
疑うこともあります。
自分自身の経験によって修正することもあります。
それでも、
自分が生きている社会や文化とまったく無関係に、自分一人だけで内部表現を作ることはできません。
記憶もまた、内部表現に関わっている
さらに、私たちの経験は、そのままの形で固定されて保存されているわけではありません。
記憶は、思い出すときに再構築されます。
現在持っている知識や経験によって、過去の出来事の意味が変わることもあります。
この問題は、内部表現の書き換えを考えるうえで非常に重要です。
しかし、ここにはさらに大きな問題があります。
記憶が変わるということは、自分にとっての過去まで変わる可能性がある
ということです。
この問題については、後でもう一度、詳しく考えることにします。
内部表現を使って、現実を見ている
ここまで考えてきたことを、もう一度確認してみます。
私たちは、
自分自身の経験、
他者から与えられた言葉、
家庭、
教育、
社会、
文化、
そして、それまでに形成されてきたさまざまな内部表現を使って、
現在の世界を認識しています。
ここで重要なのは、
まず現実をそのまま見て、そのあとで内部表現を使って意味を考えているわけではない
ということです。
私たちは、
内部表現を使って現実を見ています。
だから、普段は内部表現そのものを意識しません。
星座を知っている人が夜空を見たとき、
「私は、これまで形成された内部表現を使って、この星々をオリオン座として認識している」
とは考えません。
ただ、
「オリオン座がある」
と見えます。
私たちは、内部表現を通して認識した世界を、
そのまま現実として経験しているのです。
「自分の現実」は、自分だけが作ったものなのだろうか
ここで、最初の問いへ戻ります。
その内部表現は、いったいどこから来たのでしょう。
自分自身の経験から作られたものもあります。
自分で考え、修正してきたものもあります。
しかし、それだけではありません。
言葉は他者から受け取りました。
多くの知識も他者から学びました。
家庭から教えられたことがあります。
学校から教えられたことがあります。
社会や文化の中で身につけたものがあります。
つまり、
私たちは、自分の内部表現を使って現実を見ている。
しかし、
その内部表現のすべてを、自分自身で作ったわけではありません。
特に、世界とはどういうものなのかという大きな枠組みは、自分が一人でゼロから描いたものではありません。
私たちが生まれる以前から、
言葉があり、
社会があり、
文化があり、
価値観があり、
世界についての説明がありました。
私たちは、そのすでに存在していた世界の中へ生まれ、
他者との関係の中で内部表現を形成し、
その内部表現を使って現実を見るようになったのです。
だとすれば――
私が「自分の現実」だと思っているこの現実は、本当に私一人によって作られた現実なのでしょうか。
あるいは、
私たちの現実の大きな枠組みは、すでに他者によって描かれ始めていたのではないでしょうか。
もしそうだとすれば、
私たちはこれまで、
誰かによって描かれた現実を、自分自身の現実として生きてきた
可能性があります。
では、
私たちが「現実」だと思っているものは、いったい誰によって、どのように描かれてきたのでしょう。
