芸術論講義室
2026-08-20 07:53:00
誰が私たちの現実を描いたのだろう
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第13回 誰が私たちの現実を描いたのだろう
前回、私たちは、
自分が現実を認識するために使っている内部表現のすべてを、自分自身で作ったわけではない
というところまで考えました。
言葉。
家庭。
教育。
社会。
文化。
私たちは、自分が生まれる以前から存在していた世界の中へ生まれます。
そして、その世界を生きている人々との関係の中で内部表現を形成し、その内部表現を使って現実を認識するようになります。
だとすれば、
一つの疑問が生まれます。
私たちが「現実」だと思っているものは、いったい誰によって描かれてきたのでしょう。
誰か一人が描いたわけではない
まず考えられるのは、親でしょう。
子どもは親から多くのことを教わります。
言葉を教わります。
物の名前を教わります。
してよいこと、してはいけないことを教わります。
しかし、その親もまた、自分一人で内部表現を作ったわけではありません。
親にも親がいました。
学校へ行きました。
社会の中で育ちました。
その時代の文化の中で生きてきました。
では、学校でしょうか。
しかし教師もまた、それ以前の教育を受けています。
教科書を書いた人もいます。
その知識を作った人もいます。
さらに、その知識の基礎となった過去の研究や思想があります。
では、社会が私たちの現実を作ったのでしょうか。
しかし「社会」という一人の人間が存在しているわけではありません。
社会そのものが、膨大な数の人間の活動によって形成され、長い時間をかけて変化してきたものです。
つまり、
私たちの現実を描いた一人の作者を見つけることはできません。
私たちは、すでに描かれ始めた世界へ生まれてくる
私たちが生まれたとき、
すでに言葉がありました。
国がありました。
家族という仕組みがありました。
学校がありました。
お金がありました。
法律がありました。
仕事がありました。
社会の規則がありました。
歴史がありました。
文化がありました。
それらを私たちが一から作ったわけではありません。
私たちは、
すでに描かれ始めていた世界の中へ生まれてきたのです。
そして成長する中で、その世界について教えられます。
これは日本という国だ。
これはお金だ。
これは学校だ。
これは仕事だ。
これは会社だ。
これは社会だ。
それらが何であり、どのような意味を持ち、どう扱えばよいのかを少しずつ学んでいきます。
その結果、それらは単に「教えられた知識」ではなくなります。
自分が生きている現実になります。
人間が作ったものも、現実になる
ここで少し不思議なことが起こっています。
例えば、お金について考えてみます。
紙幣を物として見れば、印刷された紙です。
しかし私たちは、それを単なる紙として扱いません。
その紙に価値があるという社会的な仕組みを共有しています。
そのため、お金によって物を買うことができます。
働いてお金を得ます。
お金を貯めます。
場合によっては、お金をめぐって人生が大きく変わることさえあります。
つまり、
人間が作った意味や仕組みであっても、それが共有され、人間の行動を変えるなら、私たちが生きる現実の一部になります。
学校もそうです。
会社もそうです。
法律もそうです。
国家もそうです。
これらは山や川のように、人間とは無関係に自然界に存在していたものではありません。
人間が作ったものです。
しかし、だからといって、
「存在しない」
とは言えません。
私たちの行動に影響し、生活を変え、社会を動かしている。
極めて現実的なものとして存在しています。
他者から与えられたからといって、偽物ではない
ここは重要です。
自分の内部表現の多くが他者との関係によって形成されたからといって、
「自分が見ている現実は偽物である」
ということにはなりません。
私たちは社会の中で生きています。
言葉を共有することで他人と話すことができます。
お金という仕組みを共有することで経済活動ができます。
交通規則を共有することで、多くの人間が同じ道路を利用できます。
社会的に共有された内部表現があるからこそ、人間は他者と協力して巨大な社会を作ることができます。
問題は、それが本物か偽物かということではありません。
ここで考えたいのは、
私たちが「現実」と呼んでいるものの中には、人間が長い時間をかけて共同で作り上げてきたものが大量に含まれている
ということです。
内部表現が、人間の行動を変える
そして、ここからさらに重要なことが起こります。
内部表現は、単に現実を見るためだけに使われるものではありません。
内部表現によって、
何が重要なのかを判断する。
何をするべきかを考える。
何を避けるべきかを考える。
そして、
行動します。
例えば、
「学校へ行くものだ」
という内部表現があれば、人は学校へ行きます。
「働いてお金を得る」
という内部表現があれば、人は仕事をします。
「信号が赤なら止まる」
という内部表現があれば、人は横断歩道の前で止まります。
内部表現は、人間の認識だけでなく、
人間の行動にも影響します。
行動が、再び現実を作る
人間が行動すると、外界に変化が起こります。
学校という考え方が共有される。
人々が学校を必要だと考える。
すると、
学校の建物が作られます。
教師が配置されます。
教科書が作られます。
教育制度が作られます。
最初は人間の内部にあった考え方が、
人間の行動によって、
外界に具体的な形を持って現れる。
会社も同じです。
法律も同じです。
都市も同じです。
文化も同じです。
人間の内部表現が行動を生み、
その行動によって世界が変化する。
そして、変化した世界が、
次の人間にとっての現実になります。
その現実の中へ、次の人間が生まれてくる
学校という仕組みを知らなかった人々が、学校を作ったとします。
やがて、その社会に新しい子どもが生まれます。
その子どもにとって、
学校は最初から存在しています。
建物があります。
先生がいます。
教科書があります。
入学する年齢が決められています。
時間割があります。
試験があります。
その子どもから見れば、
学校は「誰かが考えて作ったもの」というより、最初から存在している現実です。
そして、その現実の中で生活することによって、子どもの内部表現が形成されます。
つまり、
過去の人間が作った内部表現が、
人間の行動によって社会の中に形を持ち、
その社会が、
次の世代の内部表現を形成する。
ここに、一つの大きな循環が見えてきます。
内部表現が現実を作り、
作られた現実が、次の内部表現を作る。
私たちは、現実を受け取るだけではない
では、現在を生きている私たちは、過去の人々が作った現実を受け取っているだけなのでしょうか。
そうではありません。
私たち自身も、その現実の中で判断し、行動しています。
既存の仕組みに従うことがあります。
疑問を持つことがあります。
新しいものを作ることがあります。
古いものを捨てることがあります。
誰かに何かを教えます。
子どもに言葉を伝えます。
自分の考えを他者へ伝えます。
仕事をします。
物を作ります。
制度を変えることもあります。
文化を作ることもあります。
つまり、
私たち自身も、次の現実を作っているのです。
現実には、一人の作者はいない
ここまで考えると、
「誰が私たちの現実を描いたのか」
という最初の問いに対する答えが、少し見えてきます。
誰か一人ではありません。
親でもあります。
教師でもあります。
過去を生きた無数の人々でもあります。
社会でもあります。
文化でもあります。
そして、
現在を生きている自分自身も、その作者の一人です。
私たちは、
何も描かれていない白紙の世界へ生まれてきたわけではありません。
すでに無数の人々によって描き続けられてきた世界の中へ生まれてきた。
そこで言葉を覚え、
知識を得て、
内部表現を形成し、
その内部表現を使って現実を認識する。
そして、その現実の中で行動することによって、
自分自身もまた、
世界の続きを描いている。
現実は、作られ続けている
ここで、第11回から続いてきた話をつなげてみます。
私たちは、
内部表現を使って現実を認識しています。
しかし、
その内部表現のすべてを自分自身で作ったわけではありません。
過去から受け継いだ言葉や知識や文化や社会によって、内部表現の大きな枠組みが形成されています。
そして、その内部表現によって人間は行動します。
その行動が社会や文化や環境を変えます。
変化した現実が、次の人間の内部表現を形成します。
つまり、
人間は現実を認識しているだけではありません。
認識した現実の中で行動することによって、次の現実を作り続けています。
私たちは、
受け継いだ現実を生きながら、その現実の続きを描いている。
そう考えることができます。
これは、
現実の創作
と呼んでもよいのかもしれません。
しかし、ここにはまだ大きな問題が残っています。
私たちは普段、
「これは過去の人々が作った世界の見方だ」
「これは社会から受け取った内部表現だ」
などと考えながら現実を見ているわけではありません。
ただ、
「これが現実だ」
と感じています。
自分が使っている内部表現そのものは、普段ほとんど意識に上がりません。
だからこそ、
他者から受け継いだものも、
社会の中で形成されたものも、
自分自身の経験によって作られたものも、
すべてが一体となって、
「私の現実」
として経験されます。
では――
なぜ私たちは、自分が内部表現を通して現実を認識していることに気づかないのでしょう。
そして、
その内部表現そのものが意識に上がったとき、私たちの現実には何が起こるのでしょう。
