芸術論講義室
2026-09-02 10:00:00
なぜ、感情は顕在意識に立ち現れるのか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第20回 なぜ、感情は顕在意識に立ち現れるのか
前回、私たちは感情について考えました。
過去の出来事を思い出したときに生まれる怒りは、過去に保存されていた怒りが、そのまま再生されたものなのでしょうか。
そうではなく、
現在の内部表現によって過去の出来事が評価され、その結果として、現在の感情が立ち現れているのではないか。
そう考えてきました。
同じ出来事を思い出しても、かつては許せなかったことが、今では笑って話せることがあります。
反対に、何十年も忘れていた出来事を突然思い出し、まるで昨日のことのように腹が立つこともあります。
過去の出来事そのものが変化したわけではありません。
変化しているのは、
現在の自分です。
そして、その現在の自分の現実を構築しているものが、現在の内部表現です。
では、なぜ内部表現による評価は、感情として私たちの顕在意識に立ち現れるのでしょうか。
今回は、そこから考えてみたいと思います。
顕在意識は、すべてを扱うことができない
私たちは、自分が見ている世界を、そのまますべて認識しているように感じています。
しかし実際には、私たちの周囲には膨大な情報が存在しています。
視覚。
聴覚。
触覚。
身体内部の状態。
周囲の人間の動き。
空間。
温度。
匂い。
さらに私たちの内部にも、膨大な記憶や経験があります。
過去の出来事。
人間関係。
知識。
習慣。
欲求。
恐怖。
期待。
未来についての予測。
それらすべてを、顕在意識で同時に扱うことはできません。
コンピューターにたとえるなら、顕在意識には使用できるCPUやメモリの容量に大きな制限があるようなものです。
もちろん、人間の意識をそのままコンピューターとして説明できるという意味ではありません。
重要なのは、
顕在意識が一度に処理し、保持し、比較できる情報には大きな限界がある
ということです。
だから私たちは、世界に存在するすべてを顕在意識に上げることはできません。
何かを選ばなければならないのです。
では、何を選ぶのでしょうか。
人間は「重要なもの」を認識している
ここで、これまで考えてきた「重要性」という問題が出てきます。
人間の顕在意識に立ち現れるものは、無作為に選ばれているのでしょうか。
おそらく、そうではないでしょう。
危険なもの。
欲しいもの。
嫌いなもの。
気になるもの。
自分に関係するもの。
過去の重要な経験と結びつくもの。
私たちの意識は、そうしたものへ向かいます。
つまり、
人間の意識に「現実」として立ち現れるものは、その人にとって重要性を持つものを中心として構成されているのではないか。
そして、これまで私たちは、
内部表現とは、その人にとって何が重要なのかを評価する構造なのではないか
と考えてきました。
だとすれば、内部表現にはもう一つ重要な役割が見えてきます。
内部表現は、単に現実を解釈しているだけではない。
膨大な情報の中から、
「今、この人にとって何が重要なのか」
という評価にも関わっているのではないでしょうか。
重要なものは、どのように顕在意識へ立ち現れるのか
では、内部表現によって重要性を与えられたものは、どのようにして顕在意識へ立ち現れるのでしょうか。
その一つが、
感情
なのかもしれません。
たとえば、仕事をしているときに突然強い痛みを感じたとします。
それまで仕事に向いていた意識は、一瞬で身体へ向かいます。
痛みは、
「現在、身体に重要なことが起きている」
ということを顕在意識に立ち現れさせます。
恐怖も同じです。
危険を感じれば、それまで考えていたことよりも、その危険へ意識が向かいます。
怒りが立ち上がれば、その原因となった出来事が意識を占めます。
つまり感情は、単に、
「私は今、こういう気持ちである」
という情報を伝えているだけではないのかもしれません。
感情が立ち現れることによって、
顕在意識の焦点そのものが、重要なものへ向けられる。
そう考えることができます。
顕在意識に立ち現れるものは、感情だけではない
しかし、顕在意識へ立ち現れるものは感情だけではありません。
たとえば、
直感。
「理由は分からないけれど、こちらを選んだほうがいい気がする。」
身体感覚。
「なぜか身体がこわばる。」
イメージ。
何の前触れもなく、ある場面が頭に浮かぶ。
想起。
何年も考えたことのなかった出来事を、突然思い出す。
こうしたものもあります。
共通しているのは、
最初から論理的な説明を伴っているとは限らない
ということです。
「なぜそう感じたのか。」
「なぜ、その場面が浮かんだのか。」
「なぜ、そのことを突然思い出したのか。」
本人自身にも分からないことがあります。
しかし、
本人に理由が分からないことと、理由が存在しないことは同じではありません。
私たちが意識できないところで行われている膨大な処理の中から、その時点の自分にとって重要性を持ったものが、
感情。
直感。
身体感覚。
イメージ。
想起。
そうした形をとって顕在意識に立ち現れている可能性があります。
「ふと思い出した」は、本当に偶然なのか
前回、過去の記憶について考えました。
何十年も忘れていた出来事を、ある日突然思い出すことがあります。
本人は、
「ふと思い出した。」
と感じます。
しかし、「ふと思い出した」という主観的な感覚は、その想起が無原因に起きたことを意味するのでしょうか。
現在の状況。
目の前の出来事。
誰かの言葉。
匂い。
音。
現在抱えている問題。
現在の感情。
そうしたものと、過去の記憶との間に、本人自身が意識していない関係が存在している可能性があります。
さらに、これまでの内部表現の考え方を適用するなら、
現在の内部表現は、思い出した過去を解釈するだけではなく、何を思い出すのかという入口にも関わっているのではないか。
という可能性が出てきます。
もちろん、すべての想起がそのように説明できると断定することはできません。
しかし少なくとも、
顕在意識に立ち現れたものだけを見て、その原因も顕在意識の中にあると考える必要はありません。
内部表現は、潜在意識だけに存在するのではない
ここで、内部表現そのものについても少し整理しておく必要があります。
これまで内部表現について考えてきたため、ともすると、
内部表現=潜在意識
のように見えるかもしれません。
しかし、おそらくそうではありません。
内部表現とは、
その人が世界をどのように捉え、何を重要だと評価し、どのような現実を経験するのかを成立させている構造
です。
その多くは、普段、意識されないまま働いているでしょう。
しかし何かが起こったとき、その一部が顕在意識へ立ち現れることがあります。
「あの人が嫌いだ。」
「なぜ私は、あの人が嫌いなのだろう。」
そう考え始めれば、それまで自動的に働いていた内部表現の一部が、顕在意識上で検討され始めます。
つまり内部表現は、
潜在意識の中だけに閉じ込められたものでも、顕在意識だけに存在するものでもない。
潜在的な処理と顕在的な認識の双方にまたがり、その両者をつなぎながら、私たちの現実を構築しているものと考えたほうがよいのかもしれません。
感情は「通知」なのか
ここまで考えると、感情を、
内部表現から顕在意識への通知
と呼びたくなります。
しかし、この言葉には少し注意が必要です。
なぜなら、感情は単に、
「あなたは今、危険を感じています。」
という情報だけを顕在意識へ届けているとは思えないからです。
怖いという通知を受け取ってから、世界が怖くなるわけではありません。
恐怖が立ち上がったとき、
世界そのものが、すでに「怖い現実」として立ち現れている。
これは、これまで考えてきた、
現実とは、その人の内部表現の写し鏡として立ち現れる
という考え方ともつながります。
だから感情は、単なる通知ではない。
むしろ、
内部表現によって重要性を与えられた現実が、感情を伴って顕在意識に立ち現れる。
そしてそのことによって、限られた顕在意識は、
「今、何に焦点を当てるべきなのか」
を知ることができる。
そのように考えたほうがよいのではないでしょうか。
顕在意識は、重要なものに焦点を当てる
ここまでの考察をまとめてみます。
私たちを取り巻く情報は膨大です。
私たちの内部に存在する記憶や身体状態、経験、欲求なども膨大です。
しかし、顕在意識が一度に扱える情報には大きな制約があります。
だから、すべてを顕在意識へ立ち現れさせることはできません。
そこで、
「今、この人にとって何が重要なのか」
という評価が必要になる。
その重要性の評価に、現在の内部表現が深く関わっているのではないか。
そして重要性を持ったものが、
感情。
直感。
身体感覚。
イメージ。
想起。
などの形をとりながら顕在意識に立ち現れる。
そのことによって、
顕在意識は、膨大な情報の中から現在の自分にとって重要なものへ焦点を当てることができる。
これは、感情を単なる「心の反応」と考えるのとは、かなり違います。
感情は、
私たちが何を現実として経験するのか、その成立そのものに関わっている可能性がある。
ということです。
では、顕在意識は何をするのか
しかし、ここで新しい疑問が生まれます。
内部表現によって重要性を与えられたものが、感情や直感、身体感覚、イメージ、想起などとして顕在意識に立ち現れた。
では、
顕在意識は、それをどうするのでしょうか。
「怖い。」
「嫌だ。」
「何かおかしい。」
「なぜか気になる。」
そこから人間は、
「なぜ、そう感じるのだろう。」
と考えることができます。
感情や直感そのものには、必ずしも言葉はありません。
しかし、それを言葉にすることによって、私たちは自分の内部で起きていることを、顕在意識上で扱えるようになります。
そして、
「本当にそうなのか。」
「なぜそうなのか。」
「どうすればよいのか。」
「このまま進めば、何が起こるのか。」
と検討することができます。
そこに、
言語と論理
の役割があるのではないでしょうか。
論理は、感情の反対にあるものなのでしょうか。
それとも、内部表現によって重要だと評価され、顕在意識に立ち現れた現実を、人間がもう一度検討するために獲得した能力なのでしょうか。
次回は、
論理は、何のためにあるのか。
そこから考えてみたいと思います。
