芸術論講義室
2026-09-03 08:43:00
言語と論理は、現実をどのように固定するのか
第3部 芸術論
第1章 なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう
第21回 言語と論理は、現実をどのように固定するのか
前回、私たちは、
なぜ、感情は顕在意識に立ち現れるのか
について考えました。
私たちを取り巻く情報は膨大です。
外界から入ってくる視覚や聴覚などの情報だけではありません。
身体の状態。
過去の記憶。
欲求。
恐怖。
期待。
未来についての予測。
私たちの内部にも、膨大な情報が存在しています。
しかし、顕在意識が一度に処理し、保持し、比較できる情報には大きな制約があります。
だから私たちは、そのすべてを同時に意識することはできません。
そこで、
「今、この人にとって何が重要なのか」
という評価が必要になる。
その重要性の評価に内部表現が深く関わり、重要性を持ったものが、
感情。
直感。
身体感覚。
イメージ。
想起。
などの形をとりながら、顕在意識に立ち現れるのではないか。
そこまで考えてきました。
では、顕在意識に立ち現れたものを、人間はどのように扱っているのでしょうか。
ここで登場するのが、
言語と論理
です。
言葉になる前の経験
私たちは、最初から言葉によって世界を経験しているわけではありません。
何となく嫌だ。
なぜか怖い。
妙に気になる。
懐かしい感じがする。
理由は分からないが、こちらを選びたい。
突然、昔の出来事が頭に浮かぶ。
この段階では、まだ明確な言葉がないことがあります。
感情や直感、身体感覚、イメージ、想起などとして何かが顕在意識に立ち現れている。
しかし、
「なぜそう感じるのか」
を本人自身が説明できない。
これは不思議なことではありません。
潜在的に行われている処理のすべてを、顕在意識がそのまま知ることはできないからです。
そこで人間は、それを言葉にします。
「私は怒っている。」
「私はあの人が嫌いだ。」
「これは危険だ。」
「私は失敗するのが怖い。」
言葉にすることによって、それまで曖昧で流動的だったものが、一つの形を持ち始めます。
言語は、曖昧なものを固定する
ここに、言語の非常に大きな役割があるのではないでしょうか。
言語は、曖昧で流動的な内部経験を、顕在意識が操作可能な対象へ変換する。
たとえば、
「何となく嫌だ。」
という感覚には、まだ多くの可能性があります。
恐怖なのかもしれない。
過去の記憶が関係しているのかもしれない。
嫉妬なのかもしれない。
相手の表情に反応したのかもしれない。
自分の身体状態が関係しているのかもしれない。
しかし、
「私はあの人が嫌いだ。」
と言語化した瞬間、それまで曖昧だったものに輪郭が生まれます。
さらに、
「あの人は嫌な奴だ。」
となれば、意味は大きく変わります。
「私は嫌だと感じている」
という自分の状態についての記述から、
「あの人は嫌な奴である」
という現実についての記述へ変わっているからです。
ここで言語は、単に内部経験を説明しているだけではありません。
曖昧だった経験を一つの意味へ固定している。
と考えることができます。
言語化された内部表現は、内部表現そのものではない
ただし、ここには重要な問題があります。
言語によって表されたものは、
元の内部表現そのものではありません。
内部表現には、
経験。
記憶。
感情。
身体感覚。
イメージ。
人間関係。
価値。
期待。
恐怖。
など、さまざまなものが複雑に関係している可能性があります。
その全体を、一つの文章へ完全に置き換えることはできません。
「私はあの人が嫌いだ。」
という言葉は、その複雑な内部状態の一部を切り出したものにすぎないかもしれません。
したがって言語化とは、単純な翻訳ではありません。
そこには、
圧縮。
切り取り。
解釈。
が含まれます。
だから当然、
間違う可能性があります。
本人は自分の内部を説明したつもりでも、その説明が内部で起きていることを正確に表しているとは限らないのです。
論理は、固定されたもの同士を操作する
ここで論理が登場します。
「私はあの人を信用できない。」
なぜなのか。
「あのとき、こういうことを言われた。」
「以前にも似たことがあった。」
「だから今回も信用できない。」
言語によって固定されたものを並べ、関係づけ、因果関係を考え、説明する。
これが論理の重要な働きの一つだと考えられます。
つまり、
言語は、曖昧なものを顕在意識が扱える形へ固定する。
そして、
論理は、言語によって固定されたもの同士を操作し、関係づけ、整合性を与える。
ここまで考えると、論理について一つ重要なことが見えてきます。
論理的であることと、正しいことは同じではない
たとえば、
「あの人は私を嫌っている。」
という前提を置いたとします。
すると、
「あいさつが短かった。」
だから、
「私を嫌っているからだ。」
「今日は話しかけてこなかった。」
だから、
「私を避けている。」
「他の人とは楽しそうに話していた。」
だから、
「やはり私だけ嫌われている。」
この説明は、本人の中では非常に整合的です。
しかし、
最初の前提が正しいかどうかは別問題です。
相手は単に忙しかったのかもしれない。
疲れていたのかもしれない。
本人とはまったく関係のない事情があったのかもしれません。
それでも、
「あの人は私を嫌っている」
という前提を置けば、その後に起きた出来事を、その前提と矛盾しないように説明することができます。
つまり、
論理的に整合していることと、その前提が外界の事実と一致していることは同じではありません。
論理は、与えられた前提そのものの正しさを、自動的に保証してくれるわけではないのです。
間違った解釈からも、現実は構築される
ここで問題は、これまで考えてきた内部表現へ戻ってきます。
「あの人は私を嫌っている。」
という説明に本人が納得した。
その解釈が繰り返され、内部表現へ組み込まれた。
すると、その人を見るたびに、
嫌そうな表情が目につく。
冷たい言葉が気になる。
昔の嫌な出来事を思い出す。
好意的な行動まで、
「何か裏があるのではないか」
と感じる。
つまり、
言語と論理によって作られた解釈が内部表現へ組み込まれることで、その内部表現が次の現実を構築し始める。
外界の事実として間違っていたとしても、
その人にとっては、
「自分を嫌っている人がいる現実」
が成立してしまう可能性があります。
これまで私たちは、
現実とは、その人の内部表現の写し鏡として立ち現れる
と考えてきました。
だとすれば、言語と論理による解釈は、単なる説明では終わりません。
内部表現へ戻ることによって、
次に経験される現実そのものへ影響する可能性がある。
ということになります。
なぜ内部表現は簡単には疑われないのか
以前、
なぜ、内部表現は簡単には変わらないのか
について考えました。
今回の考察によって、その理由がもう一つ見えてきます。
一度、
「あの人は嫌な奴だ。」
という内部表現が成立した。
ところが、その人が親切なことをした。
これは既存の内部表現と矛盾する出来事です。
しかし、
「何か魂胆があるのだろう。」
「人前だからいい顔をしているだけだ。」
「今日はたまたまだ。」
と言語によって説明することができます。
さらに、
「以前にも似たことがあった。」
「だから信用してはいけない。」
と論理的な整合性を与えることもできます。
つまり、
内部表現と矛盾する経験が起こっても、言語によって再解釈し、論理によって既存の現実との整合性を回復できてしまう。
だとすれば、
内部表現が簡単には変わらない理由の一つは、
言語と論理によって、現在の内部表現を守ることができるから
なのかもしれません。
現実だったものが、仮説へ変わる
しかし言語と論理には、反対の働きもあります。
「あの人は嫌な奴だ。」
この言葉が、そのまま現実として働いている間は、疑問は生じません。
嫌な奴だから、嫌な奴として見える。
ところが、
「私は、あの人を嫌な奴だと思っている。」
と言い換えると、少し意味が変わります。
「あの人は嫌な奴だ。」
という現実についての断定から、
「私はそう思っている。」
という、自分の内部表現についての記述へ変わるからです。
すると、
「なぜ私はそう思っているのだろう。」
「本当にそうなのだろうか。」
「いつからそう思うようになったのだろう。」
と考えることができる。
つまり、
潜在的に働いているときには「現実そのもの」だった内部表現が、言語によって顕在意識へ取り出されることで、「検討可能なもの」へ変わる。
そして論理によって、その前提そのものを検討することができる。
言語と論理は、
内部表現を固定し、補強することもできる。
しかし同時に、
内部表現を顕在意識へ取り出し、疑い、検討するためにも使うことができる。
内部表現は、不安定でありながら頑固である
こうして見ると、内部表現は非常に奇妙な性質を持っています。
経験。
教育。
社会。
他人の言葉。
自分自身の言葉。
論理的解釈。
そうしたものによって形成され、変化していく。
その意味では、
内部表現は非常に可塑的で、不安定なものに見えます。
ところが一度、それが現実を構築する内部表現として成立すると、その内部表現を通して新しい経験まで解釈される。
さらに言語と論理によって、その現実に整合性を与えることもできる。
すると今度は、
非常に頑固なものになる。
形成される過程では変化し得る。
しかし、いったん現実として成立すると、自分自身を維持しようとする。
内部表現とは、
形成過程では可塑的でありながら、成立した現実の中では自己維持的な構造
なのかもしれません。
言語は、外からも内部表現へ入ってくる
さらに言語には、もう一つ重要な特徴があります。
言語は、自分の内部を説明するためだけに存在するものではありません。
他人から、
「あの人には気をつけたほうがいい。」
と言われたとします。
自分自身は、その人から何もされていません。
それでも次に会ったときには、少し警戒して見るかもしれません。
つまり人間は、
自分が直接経験していないことについても、言語情報によって内部表現を形成することができる。
教育。
本。
ニュース。
歴史。
科学。
物語。
インターネット。
人との会話。
私たちの内部表現は、自分が五感によって直接経験したものだけから作られているわけではありません。
言語によって伝えられた世界もまた、私たちの内部表現を形成します。
だから私たちは、自分が一度も見たことのない場所について知ることができる。
経験したことのない時代について考えることができる。
まだ起きていない未来について想像することもできます。
言語は、現実を記述するだけではありません。
現実についての内部表現を作ることさえできる。
言葉が現実を固定する
ここまで考えると、一つの循環が見えてきます。
内部表現
から、その人の現実が立ち現れる。
その現実の中で、感情、直感、身体感覚、イメージ、想起などが顕在意識へ立ち現れる。
それを言語によって固定する。
論理によって説明し、整理し、整合性を与える。
その説明が再び内部表現へ組み込まれる。
そして、その内部表現から、
次の現実が立ち現れる。
つまり、
内部表現
→ 経験される現実
→ 感情・直感・身体感覚・イメージ・想起
→ 言語化
→ 論理による説明・整合化
→ 内部表現の固定・補強・変更
→ 次の現実
という循環です。
ここから考えるなら、
人間が経験する現実は、言語によって一定の形に固定され、論理によってその現実に整合性が与えられている
とも考えられます。
言語と論理は、現実を発見するためだけのものではない。
私たちが経験している現実そのものの形成にも、深く関わっている可能性があるのです。
それでも、すべてが言葉になるわけではない
しかし、ここで忘れてはいけないことがあります。
私たちは第20回で、
感情。
直感。
身体感覚。
イメージ。
想起。
などについて考えました。
これらは、必ずしも最初から言葉として立ち現れるわけではありません。
むしろ、
言葉になるより先に、すでに何かが起きている。
そして言語は、その後から、
「これは何なのだろう。」
と固定しようとする。
だとすれば、
人間が経験する現実のすべてが、最初から言語と論理によって作られているわけではありません。
言語によって固定される以前の経験がある。
論理によって説明される以前の反応がある。
本人自身にも、
なぜそうなったのか分からないまま起こることがある。
私たちは、ずいぶん長い間、
内部表現とは何か。
なぜ内部表現によって現実が変わるのか。
なぜ内部表現は簡単には変わらないのか。
内部表現はどのように書き換わるのか。
過去・現在・未来はどのように経験されるのか。
感情はどこから立ち現れるのか。
なぜ重要なものが顕在意識へ立ち現れるのか。
そして今回、
言語と論理は、その現実にどのように関わっているのか。
そこまで考えてきました。
ずいぶん遠くまで来たように見えます。
しかし、ここでようやく、
最初の場所へ戻ることができます。
一人の人間が、美術作品の並ぶ場所を歩いている。
いくつもの作品の前を通り過ぎる。
ところが、
ある一枚の絵の前で、
ふと、立ち止まった。
まだ本人は、
なぜ立ち止まったのか分かっていません。
まだ言葉もありません。
まだ論理的な説明もありません。
それでも、
その人は、立ち止まった。
では、その瞬間、
その人の内部では、
いったい何が起こっていたのでしょうか。
次回、ようやく最初の問いへ戻ります。
なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まったのだろう。
