芸術論講義室
2026-09-05 15:42:00
芸術は、本当に人を変えるのだろうか
第3部 芸術論
第2章 芸術作品は、人間に何をしているのか
第23回 芸術は、本当に人を変えるのだろうか
芸術には、人の心を動かす力がある。
芸術には、人の価値観を変える力がある。
一枚の絵によって、人生が変わることさえある。
芸術について語るとき、私たちはしばしばこのような言葉を使います。
実際、一枚の絵を見たことによって、それまでとは違う生き方を選んだ人もいるでしょう。
しかし、本当に、
芸術作品そのものが、その人を変えたのでしょうか。
今回は、ここから考えてみたいと思います。
芸術作品は、人を変えるために作られているのか
そもそも、「芸術とは何か」という問いに、明確な答えがあるわけではありません。
芸術と呼ばれるものの中には、異なる目的、異なる歴史、異なる表現が混在しています。
歴史を振り返れば、宗教的な教義や物語を伝えるために制作された絵画もあります。
政治的、社会的な主張を持った作品もあります。
したがって、すべての絵画を一つの目的によって説明することはできません。
しかし、少なくとも近現代の絵画について一般的に語られてきた大きな考え方の一つに、
「自己表現」
があります。
画家は、自分にとって重要な何かを描こうとします。
自分が美しいと感じたもの。
忘れられない記憶。
苦しみ。
喜び。
違和感。
問い。
あるいは、自分にしか見えていない世界。
つまり画家は、自分の内部にあるものを作品として表現しようとする。
それは、
「この作品によって、鑑賞者の思想や感情を、この方向へ変えてやろう」
ということとは違います。
もちろん、鑑賞者へ何かを伝えようとする作品はあります。
何かを暗示するモチーフが描かれることもあります。
しかし、
表現すること。
伝えること。
人を一定方向へ誘導すること。
これらは同じではありません。
サブリミナル効果との違い
本論は、サブリミナル効果について考えるところから始まりました。
それは当初、この論考が芸術論にまで発展することを予定していたからではありません。
私自身の作品「相転移する浮世絵」が、サブリミナル効果そのものを技法、そしてテーマとして制作された作品だったからです。
しかし、ここではその作品について論じません。
あくまでも一般的な芸術について考えます。
一般的な絵画制作の世界において、サブリミナル効果を意図的な表現技法として使用することは、極めて特殊な例でしょう。
これは、
「だから芸術には人を変える力がない」
という意味ではありません。
そうではなく、別の問題です。
もし芸術制作の主要な目的が、
鑑賞者の思想や感情を、作者の意図した方向へ変化させること
なのであれば、そのための心理的な技法が、もっと積極的に芸術制作へ取り入れられていても不思議ではありません。
しかし、通常の芸術制作は、そのような方向を中心として発展してきたわけではありません。
だとすれば、
そもそも芸術作品は、人間を一定方向へ変えることを目的として作られているのではないのではないか。
まず、このことを確認しておく必要があります。
それでも、人は芸術によって変わることがある
ところが、不思議なことが起こります。
作者が鑑賞者を変えようとしていなくても、
一枚の絵によって、その後の生き方が変わる人がいます。
ならば、何が起きたのでしょう。
第1章では、
なぜ、人は一枚の絵の前で立ち止まるのか。
という問いを考えてきました。
そこでたどり着いた一つの仮説は、
作品の何かが、その人の潜在的な内部表現において重要性を持つ何かと結びついたのではないか。
というものでした。
だから、すべての人が同じ作品の前で立ち止まるわけではありません。
他の人は何事もなく通り過ぎた。
しかし、なぜか自分だけが立ち止まった。
しかも、
「この作品はすばらしい」
と意識的に判断してから立ち止まったわけではない。
気づいたときには、すでに立ち止まっていた。
ここから、第2章は始まります。
作品に引きつけられたから、立ち止まったのではない
ここで順序を間違えてはいけません。
作品に強く引きつけられ、
作品へ注意を集中し、
その結果として通常とは異なる意識状態になった。
必ずしも、そうではないのではないか。
なぜなら今回考えている現象では、
強く引きつけられたことを本人が認識するより前に、すでに立ち止まっている
からです。
だとすれば、その前に何かが起きていたはずです。
目の前には、物理的な絵画があります。
キャンバスがあり、絵具があり、色があり、形があります。
しかし、人間が経験しているのは、その物理的対象そのものではありません。
これまで考えてきたように、
人間にとっての現実は、その人の内部表現を通して構築されます。
当然、絵画についても同じです。
私たちは物理的な絵画そのものを経験しているのではなく、
自分の内部表現によって現実化された絵画
を経験しています。
二つの関係に、ひびが入る
通常であれば、
「物理的絵画と顕在意識」
そして、
「内部表現によって現実化された絵画と内部表現」
という二つの関係は、大きく矛盾することなく、
「私はこの絵を見ている」
という一つの現実を成立させています。
ところが、ある作品に出会った瞬間、
絵の何かが、その人の潜在的な内部表現の何かと直接つながってしまった
としたら、どうでしょう。
顕在意識は、まだその意味を理解していません。
なぜ重要なのかも分からない。
しかし潜在的な内部表現においては、すでにその作品の何かが強い重要性を持っている。
すると、
「物理的絵画と顕在意識」
と、
「内部表現によって現実化された絵画と内部表現」
との関係性に、ひびが入ります。
それまで一つのものとして維持されていた現実が、揺らぎ始める。
だから、
なぜか分からない。
しかし、通り過ぎることができない。
そして、
気づいたときには立ち止まっている。
のではないでしょうか。
現実が揺らぐ
これまで本論では、
内部表現によって構築された現実が維持できなくなったとき、内部表現そのものが揺らぐ
ということを考えてきました。
通常、その人の内部表現と、その人が経験している現実は矛盾していません。
矛盾していないからこそ、人はそれを疑うことなく「現実」として経験できます。
しかし、一枚の絵との出会いによって、その整合関係に亀裂が生じたとしたらどうでしょう。
顕在意識によって維持されていた通常の現実が、一時的に維持できなくなる。
現実が揺らぐ。
ここで私は、一つの仮説を立てます。
芸術鑑賞と催眠導入
催眠では、催眠導入によって通常の顕在意識から変性意識状態へ移行し、その状態では暗示を受け入れやすくなる、と考えられています。
本論では、ひとまずこの考え方を前提とします。
では、一枚の絵の前で起きた、
「現実の揺らぎ」
は、どうでしょう。
作品の何かと潜在的な内部表現が直接つながる。
それによって、それまで顕在意識によって安定して維持されていた現実に亀裂が生じる。
顕在意識が揺らぐ。
もし、この状態を変性意識状態への移行として捉えることができるなら、
一枚の絵との出会いそのものが、催眠における「導入」と類似した働きをする場合があるのではないか。
これが今回の仮説です。
もちろん、
芸術鑑賞とは催眠術である
と言っているのではありません。
そうではなく、
作品と内部表現との接続によって通常の現実が揺らぎ、その結果として顕在意識が変性意識状態へ移行することがあるのではないか。
と考えているのです。
では、「暗示」はどこから来るのか
ここで次の問題が生まれます。
変性意識状態になれば暗示を受け入れやすくなる。
では、
何が暗示として作用するのでしょうか。
必ずしも作者が、作品の中へ暗示を埋め込んでいる必要はありません。
外部の誰かが、暗示を与える必要もありません。
しかし、これは催眠術でいう一般的な「自己暗示」とも違います。
本人が意識的に、
「私はこうなる」
「私はこう生きる」
と、自分自身へ言い聞かせているわけではないからです。
ここでも、作品と内部表現との関係を考える必要があります。
桜の絵を見た人
たとえば、
満開の桜の下で、人々が花見を楽しんでいる絵があったとします。
作者はただ、
春の楽しい花見の風景
を描いただけかもしれません。
ところが、その作品の何かと結びついた鑑賞者の内部表現が、
「もっと自由に生きていいんだ」
というものだったとしたら、どうでしょう。
その人には、満開の桜が、
自由
として見えるかもしれません。
わずかな期間で散ってしまう花が、それでも翌年には再び満開になる。
その姿が、
再生
あるいは、
逆境に立ち向かう勇気
として立ち現れるかもしれません。
作者は、そんなことを表現しようとしていなかったかもしれない。
しかし、その鑑賞者にとって目の前に存在している絵画は、すでに単なる「花見の絵」ではありません。
なぜなら、
目の前に存在する絵画もまた、その人の内部表現の写し鏡として現実化されている
からです。
変容のベクトルは、どこにあるのか
ここで重要なことが見えてきます。
作品の内容は、無関係ではありません。
満開の桜。
散る花。
そして再び咲く桜。
そうした具体的な内容があったからこそ、その人の内部表現と結びついた。
しかし同時に、作品そのものの中に、
「もっと自由に生きなさい」
という固定された命令が存在していたわけでもありません。
つまり、
作品そのものが、人間を一定方向へ変える「変容のベクトル」を一方的に持っているわけではない。
しかし、
作品が何でもよいわけでもない。
変容の方向は、
作品と、その人の内部表現との関係によって、その人にとっての「作品という現実」が構築される中から立ち現れるのではないか。
これが、現時点での仮説です。
「芸術が人を変える」とは何なのか
ここまで考えると、
「芸術が人を変える」
という言葉は、少し違って見えてきます。
作品が鑑賞者へ一方的に何かを送り込み、その人を作者の意図した方向へ変えているのではない。
一方で、
「作品など関係なく、鑑賞者が勝手に変わった」
ということでもありません。
そこにあるのは、
作品と内部表現との関係
です。
内部表現によって、その人にとっての作品という現実が構築される。
その現実によって、今度は内部表現そのものが揺らぎ、変化する可能性が生じる。
つまり、
内部表現
→ 作品との出会い
→ その人にとっての「作品という現実」
→ 現実の揺らぎ
→ 変性意識状態
→ 暗示を受け入れやすい状態
→ 作品と内部表現との関係から変容のベクトルが立ち現れる
→ 内部表現が変わる
→ 現実が変わる
という循環が存在するのではないでしょうか。
そして、内部表現が大きく変われば、
その人が重要だと思うものが変わる。
見えるものが変わる。
感じるものが変わる。
判断が変わる。
行動が変わる。
その結果として、
人生が変わることさえある。
一枚の絵が、その人の人生を直接変えたのではないのかもしれません。
その人は、自らの内部表現によって一枚の絵を自分自身の現実として経験し、
その現実との出会いによって、
今度は自らの内部表現を変えた。
だとすれば、
芸術作品に、人間を一定方向へ変える力があったのではない。
しかし同時に、
芸術作品との出会いがなければ、その変化は起こらなかったかもしれない。
芸術作品と人間。
どちらか一方に「力」があるのではなく、
両者が出会ったときに成立する関係の中に、人間が変わる可能性が生まれる。
では、そのとき作品と内部表現との間で生まれる「暗示」とは、いったい何なのでしょうか。
そしてなぜ、それは時として、それまでの人生を変えるほどの力を持つのでしょうか。
次回は、さらにその内部へ入ってみたいと思います。
