芸術論講義室
2026-09-10 14:14:00
なぜ、芸術作品と人間は「共鳴」するのか
第3部 芸術論
第2章 芸術作品は、人間に何をしているのか
第26回 なぜ、芸術作品と人間は「共鳴」するのか
芸術には、人の心を動かす力がある。
芸術には、人の価値観を変える力がある。
一枚の絵によって、人生が変わることさえある。
私たちは、芸術についてこのような言葉を使います。
しかし前回までの考察では、芸術作品そのものの中に、人間を一定の方向へ変える「力」が存在しているとは考えませんでした。
作品との出会いによって変化が起こるとしても、その変容の本体は、鑑賞者自身の内部表現にある。
では、ここで逆方向から考えてみたいと思います。
そもそも、なぜ芸術なのでしょうか。
人間の内部表現を変化させる契機となるものは、芸術だけではありません。
人との出会い。
自然。
旅。
事故。
一冊の本。
何気なく聞いた言葉。
日常に存在するさまざまなものが、人間の内部表現を変える契機となる可能性があります。
それならば、なぜ私たちは、
「一枚の絵によって人生が変わった」
と語るのでしょうか。
桜の絵でなければならなかったのでしょうか。
絵画でなければならなかったのでしょうか。
鉛筆やコーヒーカップでは、なぜいけないのでしょうか。
今回は、芸術作品と鑑賞者との間に存在する関係そのものについて考えてみたいと思います。
芸術作品には「問題意識」がある
ここでは、一つの前提を置いて考えます。
芸術作品には、その成立の基底に**「問題意識」**が存在している。
ここでいう問題意識とは、
「戦争について描いた」
「生命について描いた」
「自由について描いた」
といった、作品のテーマや内容そのものではありません。
また、鑑賞者へ何らかの思想や感情を伝えようとするメッセージのことでもありません。
作品を生み出す人間の内部に、
なぜ、それを表現しなければならなかったのか。
その根底となる重要性が存在しているということです。
作者の内部表現において何かが重要なものとして存在し、それが問題意識となり、表現という行為を通して形を持つ。
ここでは、
問題意識 → 表現 → 作品
という構造を、芸術作品が成立する一つの基底として考えます。
したがって、重要なのは作者の問題意識の「内容」が鑑賞者へ正確に伝わることではありません。
むしろ、それは必要ないのかもしれません。
作者が作品に込めた意味と、鑑賞者が作品から感じ取った意味が、まったく異なっていてもよい。
最終的に鑑賞者が経験する作品は、鑑賞者自身の内部表現によって現実化された作品だからです。
美術館を歩く人
一人の鑑賞者が、美術館を歩いているとします。
壁には、たくさんの作品が展示されています。
鑑賞者は一枚を見て、次の作品へ進みます。
また一枚を見て、次へ進みます。
そのとき鑑賞者は、壁に掛けられたものを単なる布や絵具として見ているわけではありません。
そこにあるものを、
「芸術作品」
として見ています。
美術館という場所も、その認識に関係しているでしょう。
展示空間。
照明。
作品同士の間隔。
作品名。
作者名。
そして、美術館に展示されているという事実そのもの。
それらによって作品は、鑑賞者の内部表現において、
「見る価値のある重要なもの」
として現実化されやすくなります。
一方、その作品もまた、作者にとって重要な問題意識を基底として成立したものです。
ここに、作品と鑑賞者との間の最初の対応が生まれる可能性があります。
重要度の対応
作品は、作者にとって重要な問題意識から生まれています。
そして鑑賞者もまた、その作品を「芸術」という重要な対象として見ています。
ここには、
重要度の対応
が存在するのではないでしょうか。
もちろん、作者と鑑賞者が同じものを重要だと思っているという意味ではありません。
重要なのは内容ではなく、
双方において、その対象が高い重要性を持っている
ということです。
鉛筆やコーヒーカップも、人間の内部表現において極めて重要なものになることはあります。
亡くなった父親が使っていた一本の鉛筆なら、その人にとって人生に関わるほど重要な存在になるかもしれません。
したがって、芸術だけが特別なわけではありません。
しかし芸術作品は、その成立の時点から、誰かにとって重要だったものが表現された存在であり、さらに美術館などの場では、鑑賞者からも重要なものとして認識されやすい。
そこに一つの特徴があるのではないでしょうか。
構造の対応
さらに、もう一つの対応があります。
作品には、作者の問題意識がその成立の基底にあります。
一方、鑑賞者の内部表現にも、その人にとって重要な問題が存在していることがあります。
それは、まだ言葉になっていないかもしれません。
本人自身が、まだ気づいていないかもしれません。
しかし内部表現では、何かの重要性が変化し、従来の現実との間に新しい関係が生まれ始めている。
ここで重要なのは、作者と鑑賞者が同じ問題を持っていることではありません。
問題の内容が一致する必要はない。
作品には、
高い重要性を持つ問題意識が、表現として形になったもの
という構造がある。
鑑賞者にも、
高い重要性を持つ問題意識を含んだ内部表現
という構造がある。
両者には、内容とは別の次元で、
構造の対応
が存在する可能性があります。
それでも、人はほとんどの作品の前を通り過ぎる
しかし、重要度の対応と構造の対応だけで人が立ち止まるのであれば、美術館に展示されたすべての作品の前で立ち止まることになります。
実際には、そうなりません。
多くの作品を見て、そのまま通り過ぎます。
ところが、ある一枚の前で、
気づいたときには立ち止まっていた。
なぜでしょうか。
ここに、もう一つの対応が必要なのではないかと考えます。
それが、
意味の対応
です。
意味の対応
ある作品の何かが、その人の内部表現に存在する何かと結びついた。
それは桜かもしれません。
鳥かもしれません。
海かもしれません。
色かもしれません。
形かもしれません。
あるいは本人にも説明できない、複数の要素の関係かもしれません。
重要なのは、その時点では鑑賞者自身が、
「なぜ、この作品なのか」
を理解していなくてもよいということです。
顕在意識が理由を言語化する以前に、内部表現との間で意味の対応が成立し、その作品の重要性が急激に高まった。
だから、
意識的に立ち止まったのではない。
気づいたときには、立ち止まっていた。
第1章で考えてきた現象が、ここでもう一度現れます。
三つの対応と「共鳴」
ここまでを整理すると、作品と鑑賞者との間には、三つの対応が考えられます。
重要度の対応
構造の対応
意味の対応
美術館を歩いている段階では、重要度の対応と構造の対応は、多くの作品との間に成立している可能性があります。
しかし、ほとんどの作品とは意味の対応が起こらない。
ところが、ごく一部の作品との間で意味の対応まで成立したとき、
三つの対応が重なります。
ここで起こる現象を、今回は仮に、
「共鳴」
と呼んでみたいと思います。
もちろん、これは物理学における共鳴現象そのものだという意味ではありません。
物理的な共鳴では、ある系が持つ固有の性質と外から加えられる振動との関係によって、振動が大きく増幅されることがあります。
芸術作品と人間の内部表現との間に、物理的な固有振動数が存在すると考えているわけではありません。
ここで注目したいのは、
同じものであるから共鳴するのではなく、応答可能な構造が対応することによって、大きな反応が生じ得る
という点です。
作者と鑑賞者の問題意識の内容が同じである必要はない。
作品と鑑賞者が同じ意味を持っている必要もない。
しかし、重要度、構造、そして意味の対応が重なったとき、通常とは異なる大きな反応が生じる可能性がある。
それを、芸術作品と鑑賞者との「共鳴」として考えることはできないでしょうか。
共鳴は増幅されるのか
人は立ち止まり、作品を見続けます。
すると、前回考えた循環が始まります。
内部表現 → 作品という現実 → 内部表現
鑑賞者は、自分の内部表現によって作品を現実化します。
そして、その現実化された作品を再び見る。
すると作品は、再び内部表現へ作用する。
さらに内部表現によって作品が現実化される。
この循環が繰り返されることによって、最初に生じた対応が増幅される可能性があります。
もしそうであるなら、
共鳴とは、一度だけ起こる一致ではない。
作品と内部表現との循環の中で、その対応が繰り返し強められていく現象として考えることができます。
そして、ここで重要なものが現れます。
感情です。
芸術作品は、感情を与えているのか
私たちは、
「この絵を見て悲しくなった」
「この作品に感動した」
といいます。
この言葉だけを見ると、作品の中に感情を生み出す何かが存在し、それが鑑賞者へ与えられたようにも見えます。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
これまで考えてきた内部表現の理論では、人間にとっての重要性は、その根底に感情的価値を持っている可能性があります。
だとすれば、作品との共鳴によって新しく感情が外から与えられたと考える必要はありません。
鑑賞者自身の内部表現には、すでに重要性と、それに伴う感情的価値が存在していた。
ただし、それはまだ顕在意識に上っていなかった。
言葉にもなっていなかった。
本人自身にも、はっきりとは分かっていなかった。
作品との共鳴が増幅されたとき、その内部表現が持っていた感情的価値が、顕在意識へ立ち現れるのではないでしょうか。
感情が、形のなかった重要性を現実にする
桜の絵を見ているうちに、突然涙が出る。
しかし、本人にはなぜ泣いているのか分からない。
まだ、
「自由になりたい」
「これからの人生を生きたい」
「自分は変わり始めている」
といった言葉はありません。
それでも涙が出たという経験によって、
自分の内部に、何か極めて重要なものが存在している
ことだけは、顕在意識にとって否定できない現実になります。
ここに、感情の重要な働きがあるのかもしれません。
感情とは、
まだ言語化されていない、形を持っていなかった重要性を、顕在意識が経験できる現実として立ち現れさせる働きを持っているのではないか。
その後で、言語と論理が働き始めます。
なぜ私は泣いたのだろう。
なぜ、この絵だったのだろう。
この桜に、私は何を見たのだろう。
そこで初めて、人間は自分に起こったことを言葉によって説明しようとします。
しかし、その説明より先に、感情はすでに立ち現れている。
「感動した」とは、何が起きたことなのか
そう考えると、
「作品に感動した」
という言葉も、少し違って見えてきます。
作品から「感動」というものを受け取ったのではない。
作品と自分自身の内部表現との間に対応が生まれ、共鳴が増幅された。
その結果、自分自身の内部表現に存在していた重要性と感情的価値が、顕在意識へ立ち現れた。
それを私たちは、
「作品に感動した」
と呼んでいるのかもしれません。
だから、同じ作品を見ても、すべての人が同じように感動するわけではない。
ある人は涙を流す。
ある人は静かに見続ける。
ある人は何も感じずに通り過ぎる。
同じ作品でありながら、鑑賞者によって現実化される作品が異なるからです。
芸術は、なぜ特別なのか
芸術だけが、人間の内部表現を変えることのできる特別な存在なのではありません。
日常に存在するさまざまなものが、人間の内部表現と結びつく可能性があります。
しかし芸術作品には、一つの特徴があります。
それは、
誰かの内部表現における重要な問題意識が、知覚可能な形を持ったものとして成立している
ということです。
そして鑑賞者もまた、その作品を「芸術」という重要な存在として現実化する。
そこには最初から、重要度の対応と構造の対応が生まれやすい。
さらに、ごく一部の作品との間で意味の対応まで成立したとき、
共鳴が起こる。
そして、その共鳴が作品と内部表現との循環によって増幅されたとき、
鑑賞者自身の内部表現が持っていた感情的価値が、感情として顕在意識へ立ち現れる。
芸術作品が、人間へ感情を与えたのではない。
芸術作品が、人間の内部に存在していなかったものを作ったのでもない。
作品との共鳴によって、その人自身の内部表現に存在していた重要性が、感情という形をとって現実になった。
そう考えることはできないでしょうか。
一枚の絵の前で、
気づいたときには立ち止まっていた。
そして、なぜか涙が出た。
そのとき人間は、作品の中に何かを見つけたのではなく、
作品との共鳴を通して、まだ自分自身も知らなかった自分の内部表現を、初めて現実として経験したのかもしれません。
では、なぜある作品は、一人だけではなく、時代や文化を越えて多くの人間に「素晴らしい作品」として認められるのでしょうか。
そこには、さらに別の「共鳴」が存在しているのでしょうか。
